――カナカナカナカナ……――
陽が山の稜線に隠れる時刻。
セミの鳴き声が、どこか物悲しげな響きを持つ声に変わる、そんな頃。
この時間にもなれば、夏の熱気も大分和らいでくる。
まだまだ気温は高いけれど、我慢できないほどではなく。
それ故に、散歩にせよ、用事にせよ、このくらいからの方が、人にとって良いことは明白。
そんなことを思ってなのかどうかはわからないけれど、ちょうどその時間帯に、とある墓地に、ある男が入ってきた。
男は、20代の前半くらいだろうか……黒いスーツに身を包み、花束と、小さな袋を下げている。
「……」
男は、淀みのない足取りで、無言のまま、無表情のまま、迷いなく、目的の場所へと向かう。
悲しみの色はなく、と言って喜びの色があるわけもなく。
感情がないわけでもないだろうが、それに名前をつけることは不可能で。
淡々としている、という言葉が一番近いような、そんな雰囲気だった。
男が、目的地に着いたのか、とある場所で足を止め、そのまましばらく、目の前の墓石を見つめ続けた。
ふっ……と、男の表情に、微かな悲しみの色が通り抜けた。
けれど、それは一瞬。
男は、桶を横に置き、花束を捧げ、目の前の墓石に水をかける。
夏の暑さから少しでも救われるように、と。
そんなことを考えていたのかもしれない。
墓石が清められると、男は、持参した袋から何かを取り出す。
「ほら……大好物だったよな、これ」
それは、たい焼きだった。
たい焼き……夏にはふさわしくなく、むしろ冬にこそふさわしいもの。
お供え物としてとはいえ、この時期に手に入れられるものかどうか。
けれど、男にとって、それは絶対の選択だったのだろう……その表情からは、深い慈愛が感じられた。
そんな優しい笑みを浮かべたまま、男は墓の前にしゃがみ込む。
「……久しぶりだな……あゆ」
静かに手を合わせ、静かに目を閉じる。
『月宮家代々の墓』
そんな文字の刻まれた墓石の前で、けれど、そこではないどこかに、それではない誰かに、静かに祈りを捧げる。
微かに俯いているため、その表情を窺うことはできない。
だが、男を包む雰囲気は、微かな悲しみと、確かな穏やかさを湛えていた。
どこか寂しげな、背中だった。
「……もう、7年か……」
しばらく祈りを捧げた後、そんな風に語りかける。
穏やかな微笑で、慈しむように。
「……最近、来てやれなくてごめんな。でも、色々と忙しくってさ、時間がとれなかったんだ……」
まるで、恋人に語るように。
「あ、俺、結婚したんだ……驚いたか? でもさ、ちゃんとお前のことは言ったんだぞ、俺の初恋の人だって」
優しく、優しく……
「ちょっと拗ねてたけどな……でも、俺の大事な人なら、自分にとっても大事な人だって、そう言ってくれたよ」
けれど、返事は、もちろんあるはずもなく。
「今日もさ、ホントは一緒に来ようかなって、そう思ってたんだけど、やっぱり、まずは俺だけで来たかったから」
それでも、やはり優しく。
「だから、また今度紹介するよ。楽しみにしててくれよな。あ、ちなみに、このたい焼き作ってくれたのもそいつだよ。すごいだろ?」
語り続けた。
「……なぁ、俺だけ幸せになっちまったけど、祝福してくれるよな」
想いが、届きますように、と。
「いや、確認するのも悪いか。お前はそういうやつだったもんな……最後まで、ずっと他人のことばっか気にし続けて……」
この声が、届きますように、と。
「……あゆとの思い出、全部覚えてるよ。いつでも、何でも思い出せる……なぜだろうな? 7年前まで、思い出せなかったのに」
そう、願って。
「……7年前に、思い出してやれてたら、生きてるお前に、再会できたのにな……」
届かないことを、覚悟して。
「……そしたら、どうなってただろうな……」
それでも、祈って。
「あゆ…………」
とわにキミを想う
「探し物……見つかったんだよ……」
思い返せば、これが、あゆとの最後の会話だったんだな。
その頃の俺は、他の事に気をとられすぎてたから、気付いてやれなくって。
理解してやれなくって。
あゆの、悲壮な覚悟を。
断腸の思いで搾り出しただろう、別れの言葉を。
ただ、昨日までとちょっと雰囲気が違うな、と思って、軽く励ましの言葉を送っただけ。
思えば、これもひどい言葉だったよな……
会えなくなることを理解して、最後の力で会いにきてくれたのに、俺は、また会えるって、軽く考えてたんだから。
最後の瞬間に見せた、儚い笑顔を……泣いているような、そんな切ない笑顔を見ても、俺は、気にも留めてやれなかった。
ずっと、ずっと。
7年間、ずっと。
ベッドの上で眠ったまま、俺を待っててくれてたのに。
ただ、眠り続けて。
静かに、眠り続けて。
そのまま、なんて……悲しすぎるだろ……
お前は、最後まで笑ってたよな。
泣き出しそうな心を……零れそうになる涙を……
一生懸命、抑えこんで。
ずっと、笑顔のまま……最後まで、笑顔のまま……
苦しくても、悲しくても、ぐっ……と、堪えて。
その小さな身体に、たくさんの思いと言葉を、抱え込んで……
泣けば、よかったのに。
泣いてくれれば、よかったのに。
いっつも、俺には笑顔を見せてくれて。
最後の時も……
ニュースで聞いて、病院に駆けつけた時、俺、泣いたんだぞ。
思い出してやれなかった後悔と。
わかってやれなかった苦しみと。
お前を失ったって悲しみと。
そんなものが、一気に噴き出して。
看護婦さんも、お医者さんも、誰も、声をかけられないくらいに。
本当に、涙が枯れるまで……
微笑みを湛えたままの、お前に縋り付いてさ……
みっともないくらいに、取り乱してさ……
何で、気付いてやれなかったんだろうな……
きっと、もっとちゃんと見ていれば、気付けただろうにな……思い出せただろうにな……
それが、何より悔しいよ。
何より、悲しいよ。
後悔しないで生きていける人間はいない、とか言うけどさ、そんな風に割り切れないから、後悔っていうんだよな。
きっと、一生悔やみ続けるって、そう思うよ。
でもさ、それは必要なことだと思う。
もう、2度とお前を……あゆのことを、忘れたくないから。
そう言ったら、多分、お前は悲しむんだろうな……
思えば、ずっとそうだったもんな……俺のことばっか気にしてさ。
わがまま、言えば良かったんだよ。
言ってくれりゃ、良かったんだよ。
結局、俺、何もしてやれなかったじゃないか。
お前からもらったものは、たくさんあるのに。
最後まで、お前に、何もしてやれなくてさ。
お前が眠り始めたときも。
眠り続けてるときも。
眠ることさえ許されなくなったときも。
俺は、お前のことなんて気付きもせず……考えもせず……
正直、自分が許せないとも思ったりするよ。
でも、俺が俺を許さなくて、一番悲しむのって、あゆだもんな。
簡単に想像できるよ……お前の悲しむ顔が。
だから、今も、俺は何もしてやれないんだな。
なぁ……どうして、笑っていられたんだ?
そりゃ、お前が恨んでる姿なんて考えられないけどさ、でも、最後の瞬間まで微笑んでいられたのは、どうしてなんだ?
俺は、何もしてやれなかったんだぞ?
たった1人で、7年間も眠り続けて……待ち続けて……
それなのに、俺はあゆのことを、すっかり忘れていて……
ホントに、俺って残酷なことしてたよな。
たった1つの拠り所にしてくれてたのに。
俺は、それに気付いてやれずに……
どんなに、辛かっただろうな……
どんなに、寂しかっただろうな……
なのに、お前は微笑んでくれてたんだよな……
あゆ……お前、優しすぎだよ……
探し物……あの天使の人形だったんだな……
寝ているお前の横に、笑顔の人形を見つけて、ようやく思い出せたよ……あゆのことも……約束のことも……
願い事……確か、あと1つ残ってたのに、結局、言わずじまいでさ。
そんなとこも、あゆらしいよな。
ちょっと抜けてて。
底抜けにお人好しで。
誰より優しくて。
だから、誰より悲しくて。
思い出さえも、ままならないなんて、そりゃお前遠慮しすぎだよ。
俺なんかが叶えてやれるような、そんな些細な願いさえも、叶えてもらえずに。
誰だって謳歌できる日々も、過ごすことさえできずに。
友達と笑いあうことも。
ケンカすることも。
遊ぶことも。
それ以前に、友達をつくることさえも。
そんなことさえも、機会すら与えられずに。
何で、あゆが、この世界を去らなきゃならなかったんだろうな……
なぁ、願い事、言ってくれよ。
あと、たった1つじゃないか。
たった一言、それだけなのに。
それなのに……
もう、あゆは、ここにはいないんだよな。
たい焼き屋のおっさんも寂しそうにしてたぞ、そういえば。
『あの元気な嬢ちゃんはどうしたんだ?』って、あの頃、何度も聞かれたよ。
なぁ、もう1回くらいさ、こっちに来れないのか?
たい焼きだって、食べ足りないだろ?
アイツの作るたい焼き、お前に食べさせてやりたいんだよ。
他にもさ、あゆが知らない幸せなこと、たくさんあるんだぞ?
そっちに腰落ち着けるのはさ、もっと先でもよかったんだぞ?
なんて言っても、お前は遠慮するんだろうな……もう、7年だもんな……
7年も経ったのに、1度も顔見せてくれないんだもんな……
俺ってわがままだな、ホントに。
いっつも、失ってからぼやくんだ。
帰ってきてくれって。
戻ってきてくれって。
なんて自分勝手。
幸せになってほしかった。
誰よりも優しいお前に。
幸せにしてやりたかった。
誰よりも悲しいお前を。
ずっと、笑顔でいてほしかった……笑顔を見せていてほしかった……
悲しい思い出に身を浸すんじゃなくて、楽しい思い出で満たしてやりたかった。
親を失って、一人ぼっちになって。
俺がいなくなって、また一人ぼっちになって。
そんな悲しい思い出じゃなくって。
家族の中で……友人達の中で……
勉強したり、遊んだり、恋をしたり。
そんな当たり前の暮らしの中で、幸せを感じさせてやりたかった。
でも、それも叶わないんだよな。
どんなに願っても……祈っても……
俺にできることは、こうやって、ここに会いに来てやることだけ。
これだって、あゆのためじゃなくって、自分のためかもしれないのに。
なぁ……届いてるか? 聞こえてるか? 聞いてくれてるか?
やっぱり、会いたい。
もう一度だけでもいい。
一瞬でもいい。
あゆに、会いたい。
あゆの笑顔が、見たい。
あゆの声が、聞きたい。
これって、そんなに難しいことなのか? 望んじゃいけないものなのか?
こんな簡単なことなのに……俺は、できないんだな……
結局、俺のエゴなのかな……こんな風に考えるのって。
でも、あゆに幸せになってほしかったのは、本当だぞ。
相手が俺じゃなくてもいい。
とにかく生きて、幸せを掴んでほしかったよ。
そうすりゃ、笑い話だったのにな……笑い話にすることだって、できたのにな……
初恋の話だって、7年前の不思議な出来事だって、笑顔で話せたのにな……
足りないぞ……思い出。
幸せな記憶が、もっとあったっていいのに……世の中って、ホントに不公平だよな。
もし、お前が生きててくれてたら、今頃どうなってたかなぁ……あ、これ、内緒だぞ? アイツ、大人しそうに見えて、結構嫉妬深いんだよ。
でも、アイツには悪いけど、考えるくらいはいいよな。
でさ、正直、結婚はともかく、きっと、ずっといい友達ではい続けられたって、そう思うよ。
やっぱり、お前のこと、好きだったしな。
あゆが、どう思ってくれてたかはわからないけど。
そうだ。
なぁ、俺に子供ができたら……それがもし女の子だったら……
『あゆ』って、名前にしてもいいか?
そしたら、アイツがまた少し拗ねるかもしれないけど。
でも、アイツを愛してるのは間違いないからさ、だから、許してくれそうな気がするんだ。
だから、あとは念のために、お前にも聞いておきたい。
返事……してくれないか?
なぁ……あゆ?
――ヒュゥッ……――
一瞬、強い風が吹いた。
すぐにまた、風は弱まったけれど。
けれど。
「これが、返事……だったらな……」
都合のいい解釈。
勝手な解釈。
偶々、風が吹いただけなのに。
タイミングが、偶然合っただけなのに。
「……でも、いいよな……そんな風に、考えても」
それでもいいじゃないか。
偶然? 勝手? 確かにそうだ。
でも、あゆならきっと、名前を使わせてくれるって、そう思うから。
『うぐぅ』って、少し照れ臭そうにはにかみながら、それでも、やっぱりどこか嬉しそうに、許してくれるって、そう思うから。
「……ありがとな、あゆ」
たくさんの想いを。
色々な想いを。
その言葉にのせて、風へと託した。
遠いところにいる彼女に少しでも近い位置に、その風が運んでくれることを願って。
「祐一さん」
呼ばれて振り向くと、そこには、つい最近結婚式を挙げたばかりの、最愛の人が微笑んでいた。
「よぉ、来たのか」
「はい。やはり挨拶はしておきたかったので」
「律儀だな」
少し苦笑。
でも、どこか嬉しそうな、苦笑。
そして、場を譲る。
「はじめまして、あゆさん。まずはごめんなさい。あなたの初恋の人は、私がとっちゃいました」
そんな言葉で、挨拶が始まる。
そこから始まる長い話を、祐一は、静かに聞き続ける。
自分への想いを語る、その口調に照れて。
あゆへの想いを語る、その口調に微笑み。
未来への想いを語る、その口調に決意を新たにし。
愛する彼女を幸せにすることを、そして、改めて誓い。
優しげな瞳を、“2人”に向けていた。
「じゃ、そろそろ帰るか」
「そうですね」
すっ、と立ち上がる。
見れば、もう大分薄暗くなってきている。
これでは、家に帰り着く頃には、深夜になっているだろう。
それでも、決して慌てることはなかった。
静かに歩を進め、けれど、数歩歩んだところで立ち止まり、ふと振り返る。
そこには、ただ先程と同じ光景が広がっていた。
静かに、穏やかに。
ただ、あゆの生きた証が、佇んでいる。
「どうかしましたか?」
怪訝そうな表情で聞いてくるその声に、何でもない、と返し、祐一がまた歩き始め、彼女の隣に並ぶ。
ちら……と、横目で窺った祐一の顔は、薄暗くてわかりにくかったものの、優しげな微笑を湛えていた。
自分が好きになった、そんな微笑み。
きっと、あゆという少女も好きだっただろう、そんな微笑み。
それが今、自分に向けられているのか、彼女に向けられているのか。
それはわからないけれど、でも1つ、確信していることがある。
この人を、好きになってよかった……この人が、自分の愛する人で、本当によかった……
この想いは、きっと、彼女も同じだと、そうも思った。
自然に、微笑みが浮かぶ。
最近、自分でもよく笑うようになった、と思う。
それは、間違いなく隣にいる最愛の人の影響で。
昔の自分との違いに、また笑いがこみ上げてくる。
「ん? どうした?」
「いえ……」
「何だよ、気になるな」
「そうですね……言ってしまいましょうか?」
「何だ? 一体」
そこで首を捻る祐一に、自分にできる最高の笑顔を向ける。
きっと、彼女も向けていただろう、そんな笑顔を。
妬けないわけではないけれど、でも、彼の想いは理解できるから。
自分を愛してくれている、その想いに偽りがないことは間違いないから。
だから、心からの笑顔を見せることができる。
「今日、病院に行ったんですよ……3ヶ月ですって、言われました」
「え……? ちょ、それって、もしかしてもしかするのか?」
俄かに興奮した口調になる祐一を見て、彼女は冷静に繰り返した……新たな生命の誕生を伝える、その言葉を。
「お、男の子なのか? 女の子なのか? なぁ、どっちだ?」
「それはまだ調べてませんよ。落ち着いてください」
「って、落ち着けるかよ……でも、そっかー……何か感動だな……」
子供のように目を輝かせる祐一。
そんなところも、また、愛しい。
「ふふ……名前、考えておいてくださいね」
「あ、それならさ……」
白く浮かび上がる月が、彼らを優しく照らしていた。
どこか優しげに。
まるで祝福するかのように。
笑顔の絶えない2人を見守っているかのように。
想いを届けてくれるかのように。
儚くとも、温かみを感じるような、そんな光を浴びて、2人は仲良く寄り添っていた。
月は、どこまでも優しく、彼らを照らし続ける。
いつまでも……いつまでも……
どこまでも……どこまでも……
後書き
こんにちは、まだまだ駆け出しSS作家のGaNです。
えー……というわけで、ちょっと特殊なSS……というか、ヒロイン誰よ? ってなSSでした。
一応、あゆともう1人、祐一の奥さんがヒロインって感じですけど、その奥さんが誰かについては、敢えて書きませんでした。
なぜかというと、あゆを強調したかったからです。
誰かわからないように書いておいて、あゆの印象を深めるのが狙いだったんですけど……上手くいったかなぁ……?
今回書きたかったのは、別シナリオ時のあゆについてなんです。
あゆってキーパーソンなのに、他のシナリオでは、全然“その後”がわからないじゃないですか。
だから、もし、それを祐一が知ったらどうなるかな、とか考えて、それを書いてみたかったんです。
結論としては、“苦悩しながらも、幸せになろうと頑張る”といったところじゃないかな、と。
あゆのことで後悔して、でも、幸せになろうと、幸せにしようと頑張るって感じで。
ちなみに、奥さんが誰かについては、ここでも書きません。
もちろん、あるキャラをイメージして書いてたんですけどね。
某物腰が上品な彼女を……(笑)
ただ、断言しちゃうと、そっちのことについても書かなきゃならなくなってしまうので、ここでは、“謎”ということにしておいてください。
あくまで、主題はあゆについてなので。
さてさて、今回、ほとんどが祐一の一人称だったので、読みにくくなかったか、少し心配です。
ただ、一人称の方が、雰囲気が出るんじゃないかな、と思ったので、こういう形にしました。
しかし短編書くのって、色々と勉強になりますね。
こうやってるうちに、自分のスキルが磨かれていってるといいなぁ……
こればっかりは、自分ではよくわかりませんから……う〜ん、どうかなぁ……
ではでは、また機会があれば、お会いしましょう。
それではこれにて失礼します。