時をこえる思い 第九話 龍牙作
「学びしこと」
「あ、もうこんな時間ですね。すいません、川澄さん、そろそろ妹のところに行かなくてはいけませんので」
「あ、こちらこそお引止めしたようで申し訳ありません」
「いえいえ、とっても楽しかったですわ♪」
あれから一葉たちは少しの間駅前近くの喫茶店に移動し、しばらくの間会話を楽しんでいた。
そして、どうやら時間がやってきたようで親同士、別れの挨拶を交わしている。
真弥は時間をとらせたことを少しすまなく思っているようで表情にもそれが表れているが、一葉は実に上機嫌のようで気にしないように気遣っている。
実際、良い友人に巡り合えたと思っている一葉は、とても気分がいいようだ。
「そうですか……それならよかったです」
「ふふ、そんなに気にしなくていいですよ。……さて、ではそろそろ出ましょうか?」
「ええ」
「そうだな、母さん」
そして、自分の言葉に少し安心した様子の真弥を内心微笑ましく思いつつ、一葉は席を立つ。
真弥も彼女に続いて席を立ち、母親たちの会話の横で舞たちと会話を楽しんでいた祐一もそれに習う。
「うん」
「はちみつクマさん」
「「え?」」
さて、幸と舞も一葉の言葉に頷いたわけだが、舞はこんな言葉を口にしてくれた。
初めて聞く謎の反応に、さすがに一葉は少し驚いているようだ。
また、同じように疑問の声を上げた祐一の方は一葉とは違った意味で驚いていた。
“はちみつクマさん”と言う言葉は、祐一にとっては初めてではない。
彼にとっては懐かしい言葉である。
だが、さすがにいきなりこんな言葉を聞くとは思わなかったので結局驚いてしまったのだ。
「あらら……大分板についてきちゃったわね」
「あやや……」
ちなみに同じように舞の言葉を聞いていた真弥と幸は苦笑を浮かべている。
「? どうしたの? みんな」
「いや、どうしたのって言われてもな……舞、いきなりそんなこと言ってどうしたんだ?」
「? なんのこと?」
「いや……あのな」
「ふぅ……待って、祐一。あたしが説明するから」
状況をよくわかっていない舞のために、幸は助け舟を出し始める。
ちなみに、本当はこれをネタに祐一にちょっと意地悪をしようと思っていた幸だったのだが、一葉とのやり取りで気勢をそがれたせいかもうそんな気はあまりないらしい。
だが――
「でもね、祐一。説明する前に聞いておきたいんだけど、祐一、よもや去年の夏に自分が言った言葉を忘れてないよね?」
「俺が言ったこと……?」
「全くもう……舞がこんなことを言うようになったのは祐一のせいじゃない!」
「え? え?」
――ちょっと嫌な予感がしたので幸は一応質問してみる。
すると、嫌な予感は当たっていることが幸にはわかり、彼女は呆れたとばかりの表情で声を上げる。
さて、祐一は忘れてしまったようだが、去年の夏にはこんな一コマがあった。
『う〜〜ん』
『どうしたの? 祐一』
時は去年の夏。
祐一と舞は麦畑の中でかくれんぼをして遊んでいた。
そんな中、祐一は楽しそうに遊んでいる舞の様子を見て、何か思うところがあったらしく立ち止まった。
舞はそんな急に立ち止まってしまった祐一を不思議に思い、声をかける。
『舞、お前は可愛いけど、もっと可愛くなってもらおうかと思うんだ』
『!? ゆ、祐一。な…なにを……』
すると、いきなりとんでもないことを祐一は口にしてくれた。
舞はいきなりのことに頭がよく回っていないらしく、戸惑っている。
『はは、まあ、聞け。“はい”は“はちみつクマさん”で“いいえ”は“ぽんぽこタヌキさん”とこれからはそう言ってくれ』
しかし、祐一はそんな舞の様子を気にせずに話を続ける。
どうやら舞の新鮮な反応を楽しんでもいるようだ。
舞がまだ幼いこともあってか、自分が何を言ったのか深くは考えていないようである。
『よ、よく意味がわからないよ……祐一』
『まあ、細かいことは気にするな。こうしてくれれば、舞の可愛さ倍増なんだから♪』
『うぅ……でも、そうすると祐一はうれしいの?』
『ん? まあな』
『じゃあ……わかった。今度言ってみる』
『期待しているぞ〜』
「あ、あのときか!」
さて、現在に目を戻してみると、幸の話を聞きながら祐一も思い出したようだ。
何故忘れていたかと言うと、この話の後に幸が実体化したりと色々あったのでうやむやのうちに忘れてしまっていたらしい。
しかし、舞はちゃんと覚えていたのである。
(あー……半分冗談だったんだがなあ……まあいいんだけど)
予想外の事態に祐一は苦笑を浮かべるしかなかったようだ。
もっとも、彼はそんな困ったことでもないと考えていたりもする。
自分と関係した過去は変わっても、舞が過去に迫害を受けた事実は残念ながら変わっていない。
だからこそ、これからは楽しい時間を過ごしていってほしいと思う。
しかし、舞は少し不器用なところがある。
ならば、こういったボキャブラリー的な要素を持たせてもいいのではないかと祐一は考えているようだ……。
また、未来の舞に“はちみつクマさん”と言わせた機会はほんの一回かそこらだから、今度こそもっと言わせてみたいと彼は思っていたりもする。
「ちなみに、一生懸命使おうと思っているうちに舞ったらもう癖になっちゃったみたい。あたしやお母さん以外にも時々使うようになっちゃったんだ」
「……マジですか」
「うん」
(……流石に多用は……あっはっは……)
しかし、幸の言葉で祐一の表情は少し凍りつく。
自分や身内でなら楽しいで済むし、特に子どもの内ならばある程度まで可愛いで済むだろう。
しかし、あまりおおっぴらに使われてしまうと収拾はつかなくなる。
祐一はそのことに、いまさらながら気づいてしまったようだ。
「祐一……責任取ってあげてね」
「………」
なんとなく祐一の思考を察して、幸はかなり呆れてしまっているようである。
そのためかちょっとだけ棘のあるような、他にも意味を含んでいるような言葉を幸は口にする。
やっぱり、計画していた悪戯をちょっとはしておこうと思いなおしたようだ。
対する祐一の方は言葉もない。
祐一を少し困らせてみようという夏に考えた幸の計画は成功したといえる。
ただ……成功したのは幸の言葉そのものより、実の所、別の要因が大きく作用していたりする。
舞の今後に色々影響させる様なことを自分はしてしまったと言う思いだけで、祐一は言葉を失ったわけではないのだ。
むしろそちらのほうは何とかなるだろうと、半ば開き直ろうとしている気持ちが祐一にはある。
かといって、幸の言葉の裏にある気持ちを読んで言葉を失ったと言うわけでもない。
彼が言葉を失った真の理由は――
(にやり)
(……あの微笑みはもう勘弁してください……)
――自分が母にからかわれる材料を、自らの手で作ってしまったことに気づいたからであった。
「相沢さん、私たちはこちらで曲がりますので」
「そうですか、では川澄さん、またです」
「はい、いずれまたお会いしましょう。祐一君、いつでも遊びに来てね」
「はい、必ず行きますから」
「「またね、祐一」」
「おう、またな」
嵐の前の静けさ……と祐一は感じていたかもしれない。
何事もなく、祐一と一葉は舞たちと別れの挨拶を交わして分かれている。
「さて」
(き、きた)
そして舞たちと分かれた後、祐一にとっての嵐が襲ってくる。
「はちみつクマさんって……何?」
(……あははは……母さんに弄ばれ、時の番人に弄ばれ……僕は今日はもう疲れたよ……お休みなさい……クゥ)
「あや? 祐ちゃんが急に寝るなんて珍しいわね」
時の番人の精神作用の魔法効果の副作用か……はたまた一葉のいつも以上のからかいのためか。
いずれにしてもなんだか精神的に疲れていた祐一は、お母さん台風に立ち向かうのを放棄して睡眠に逃げた。
思考がとっても主観的な表現になっているあたり、よっぽど疲れていたのかもしれないが……いきなり寝りだすのはさすがに祐一らしくはない。
やはり誰かさんの策略が働いているのである。
さて、そのことはひとまず置いておくとして一葉の方に目を向けてみると、彼女は睡眠に逃げるなんていう反応は初めてだったのでちょっと驚いている。
驚くところが間違っている気もしなくはないが、そんな所が一葉の一葉たる所以である。
「……ちょっとやりすぎちゃったかしら?」
「………」
「う〜ん、それにしても今日はいつもより耐久力がないような……じゃあ、偶にはこんなことをしてあげようかな」
そう言いつつ一葉は祐一を抱っこし始める。
「むぅ……さすがに重くなったわね」
口ではこんなことを言っているが、確実に成長している我が子を心のうちではうれしく思っている一葉。
そして、背中にしょった祐一を見つめる瞳は、彼をからかうときに見せるものと明らかに違う優しい眼差し。
(……やっぱりずいぶん大きなものを背負っているみたいね)
祐一はこの程度のやりとりで疲れるような性格ではなかったと、一葉は思う。
まあ、そもそも以前の祐一ならありえないようなやりとりばかりとも言えたのだが。
だけど、それはつまり完全には成長しきっていないと言う不安定な状態なんじゃないかとも予想できる。
気を張りすぎて、本来の自分らしさを出し切れていないんじゃないかとふと一葉は思ったようだ。
祐一が眠った本当の裏事情を知らない一葉だが、その予想自体は当たらずとも遠からず。
過去の祐一の精神と未来の祐一の精神。
そして、子どもの体。
やはり、多少はそれらのアンバランスが表にでてしまうこともあるということなのである。
(やっぱり……ぜぇぇぇったい力になるからね、祐ちゃん)
真実にはまだ近いとはいえなくても、改めて祐一の変化に不安を感じた一葉は心の中で意気込んでいた。
そして、祐一を起こさないようにゆっくり歩く。
遊ぶときは思いっきり遊ぶ。
癒してあげるときはきちんと癒す。
色々と祐一にとっては困ったお母さんである一葉も、そのあたりはしっかりしているようだ。
「……は! ……? 母上、少しお聞きしたいのだが?」
さて、水瀬家への道の途中、祐一は目が覚めてしまったようだ。
どうやら自分が何をしていたか気づいていないようである。
また、現在の状況はわかりやすくはあるが認めたくないと言ったところなのだろうか、ちょっと口調を変えて母に質問する。
「おや、気がついちゃったか。まあ、見ての通りよ」
対する一葉はそんな息子を内心面白く思いながら、しれっとした顔で普通に答える。
「……私の目には抱っこされているように見えるのですが?」
「うん、目は悪くないみたいよ」
「………」
現在の状況と言う現実を受け入れることに迷うこと、小一時間……。
徐々に自分が母親に抱っこされていると言う事実を祐一は認め始めていく。
「恥ずかしい! 下ろしてくれ、母さん!」
「まあまあ♪」
そして、導き出した答えは恥ずかしいの一言。
ちょっと暴れながら祐一は母に懇願する。
しかし、悲しいかな、意外と力のある母に祐一はがっちりと捕まえられてしまっている。
「……頼みます。下ろしてください」
「イ・ヤ♪」
(うぐぅ……)
流石に暴力に訴えるのはいけないことだと思うので、とりあえず祐一は下手に出てみる。
だけどやはり、それは無意味。
どうしようもなくてとりあえず心の中で誰かさんの如く困ってみる。
「ま、いいじゃないの。どうせもうすぐしたくても出来なくなるくらい大きくなっちゃうんだから、出来るうちにやらせてちょうだいな♪」
「――!?」
「……ん? どったの? 祐ちゃん」
「い、いや…なんでもない」
「?」
そんな困ったような祐一に、そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないとばかりに一葉はおどけたように明るい調子で声をかける。
すると、一葉の言葉を聞いて祐一は何かに衝撃を受けたようにはっとなった。
祐一のそんな反応を一葉は不思議に思い、少し首をかしげる。
(したくても出来なくなる……か)
そして一葉がそうやって祐一の様子を不思議に思っている間、彼は母が何気なく口にした言葉を頭の中で反芻させていた。
彼女にしてみれば何気ない言葉だったかもしれないが、祐一にとってはこの言葉は深い意味を見出せる言葉だったのだ。
(俺は今……過去にいるんだもんな)
そのことはもうわかりきっている事実ではあった。
しかし、その事実が意味するものを自分は理解していなかったのかもしれないと祐一は感じている。
これから九年間の様々な思い出を自分は持っている。
しかし、自分の身近な人たちにはまだそれがない。
そのことが意味することを自分は完全に理解していなかったのだと祐一は気づいた。
(……歴史を変えないように行動するってのはタイムスリップの物語なんかでもよくあること……しかし、それはタイムパラドックスなんかへの危惧のためだけにするんじゃないのかもしれないな……)
ふと自分が読み知っている物語や時の間で見た記録を思い出しながら、その時は感じなかった側面を祐一は考えてみる。
(自分の身近な人たちが経験するはずだった時間……それは楽しい思い出、悲しい思い出、その後の人生の糧となるもの……いずれ様々なものになりうるんだ)
確かに悲しい未来を変えるために自分はここにいる。
しかし――
(未来を変えると言うことは少なからず、そんな大切な時間を奪うことにも繋がる……か)
――そういったことを自分は覚えておかなくてはいけないのだ。
(だから、誰かの大切な時間を奪うことをせめて出来るだけ避けると言う意味でも……なるべく歴史を変えないようにしなければいけないのかもしれないな)
時を遡ると言うことの業の深さ。
それを改めて祐一は感じて、母に見えないように少しうつむきながら悲しい笑顔を浮かべる。
(全く難しいな……せめてといっても……器用に変えたい部分だけ変えるなんてそう上手くいくとも思えん)
ただ、大切な人たちが笑顔で歩める未来を望むだけで、こんなにいろいろなことを考えなくてはいけない。
そんなにこの願いは望んではいけないことなのかと少し悲しく思い、また問題のあまりの多さの前ではもう笑うしかない気までしてくる。
かといって、歩みだした自分たちの周りの歯車は止まるまい。
もとより途中でやめる気など毛頭ないが、そもそも後戻りは出来ない道を自分は選んでしまったのだ。
(……やってやろうじゃないか、宇宙一我侭なやつになってやるさ!)
ならば、自分がやることはただ一つ。
やれるだけやってみる、だろう。
そして心の中で改めて決断した彼は、現実へと意識を戻す。
(とりあえず、今俺が出来ることは何だろう?)
ふと母を背中越しに見る。
そして母のぬくもりを感じる。
そのぬくもりを恋しく思う気持ちが自分にはある。
もちろん恥らう気持ちもあるけれど。
でも、悪い気はしないのが正直な気持ちだろう。
(――この自分の中にある幼い自分の心、それに身を任せてみればいいのかな? 少なくとも……あいつらのこと以外では)
この母親もまた、自分の大切な人の一人。
喩え自分の目的と矛盾することになろうとも、できることならばそんな人の大切な時間になるものを奪いたくはない。
ならば……過去の自分の心の赴くままに、やれることはやろう。
それが今の自分に出来る精一杯のこと……。
「おや…? 観念したの?」
「何言ったって下ろしてくれないだろ…」
「クスッ」
少し雰囲気が変わり、おとなしく背中にくっつき始めた我が子を背中に感じて一葉は息子に問いかける。
やや頬を膨らませながら、その息子は憎まれ口を叩く。
そんな息子の様子を見て、一葉は自然と微笑みをもらす。
今までのように、どこか大人でもあり子どもでもあるような不自然な感覚を今回は感じなかったのでうれしかったのだ。
「だって本当は嫌じゃないでしょ♪ 祐ちゃん」
「肩凝っても知らないぞ…」
「その時は祐ちゃんに肩もんだり叩いたりしてもらうわ♪」
「……負けました」
「くすくす……」
一葉も祐一も本当に自然体のままに、会話を紡いでいく。
祐一の言動も少し照れているような仕草も演技ではない。
彼の体と今の時間に合うのはやはり、子どものころの彼の心。
無理に肩に力をいれなければ、自然と形はできていくのである。
(なんか……恥ずかしいけど、この方が落ち着く……不思議なもんだ。むしろさっきの方が疲れて……ってあれ? そういえば何で俺さっき眠ったんだ?)
それは、時の番人のいろんな意味でのちょっとしたプレゼント。