時をこえる思い 第二十五話 龍牙作
「救うことが、できました」
本殿から祐一と夕菜を居間に運び込んだ皆は、布団を敷き、二人を寝かせていた。
夕菜は穏やかな寝息を立てているが、祐一の表情はとても苦しそうで、皆心配している。
「無茶をしたものだな……どれ」
金老狐は少し呆れながらも、傷つけた力自体は自分のものだからと複雑な思いを抱いている。
だから、これはほんの御礼と罪滅ぼし。
美汐もできるだろうが、ここは、自分にやらせてほしい。
後で謝るとしようと、尾の一つを祐一の体に向ける。
すると、祐一が淡い優しい光に包まれた。
ほどなく、祐一の怪我は癒えて行き、出血多量により悪くなっていた血色もよくなっていった。
「ふむ、こんなものか」
「すごいですね」
「そなたが癒したかったかも知れぬが、すまぬな、これくらいはさせてくれ」
「いえ、私はこれほど上手にはできませんし」
「謙虚だな、もっと欲張りでもいいと思うぞ」
「そういわれましても…」
「…そうか」
美汐としては素直に、金老狐の方がしっかりと癒してくれると思ったのは本当だった。
謙虚だな、と思いつつも、それだけ祐一を案じているということかと金老狐は彼女を改めて見て思いなおす。
「とはいえ、さすがに失った体力や精神力までは回復することは出来ない。後はゆっくりと休ませてやるほうがよかろう」
「はい」
そう応えながら、真剣に祐一と夕菜を気遣う美汐を見つめつつ、少し金老狐は物思いに耽る。
いつもならば、怪我の治療すら、自分にはあまり許されていない行為なのだと悲しくなる。
これは、狐を人にすることのように実際に出来ないからではなく、干渉が許されていないからだ。
金老狐に直接関わったものでなければ、簡単な力も貸すことが出来ない。
そんな、丘の狐達が普通の生活で受けた怪我なども癒してあげることすら、許されないほど神の域に達してしまった自分の力。
そのことを、ここ数十年は三度にわたる奇跡の発端、人による怪我と怪我の治療の段階で思い知らされた。
そして、力があろうと、行使できず、結局何も出来ない悲しみにも奇跡が終わる時に、苛まれる。
だから、夕菜を救えたこと、祐一の傷を癒せたことは嬉しかった。
この両方の空しさを晴らしてくれた祐一には、本当に感謝の気持ちを向けなければならないと金老狐は思っていた。
「今さら、なんじゃがの?」
「ん? 竜人、と呼ぶぞ、なんだ?」
竜人は、金老狐と美汐の会話が落ち着いたあたりで、思っていた疑問を尋ねようと話しかける。
そして、金老狐の応答を聞いて、そういえばちゃんとした名のり合いはしていなかったなと思い、それでいいと話を続ける。
「この少年は何者なんじゃ? 金老狐は知っておるようじゃが……美汐、お前も知っておるのか?」
「それは……」
竜人の当然の疑問に、美汐は何か言おうとは思った。
しかし、なんと説明したら言いか分からず言葉が続かない。
第一、最初に竜人が祐一と出会ったときに立ち会っていた自分と、先ほどの自分は明らかに祐一に対して異なる対応をしている。
そのことに、竜人は気付いているだろうから、下手に嘘もつけないと美汐は思った。
「この少年が何者か……か。そんなことはどうでもいいのではないか? 竜人よ」
「なぬ?」
そんな困っている美汐を見て、金老狐は助け舟を出す。
しかし、少々この言葉だけでは理不尽であろう。
竜人は面食らっている。
「この少年が、そなたらと同じ経験をしたことはもうわかっていよう?」
「うむ、話にも聞いているが、それに、実際に救って貰ったのじゃ、信じておるよ」
「だが、この少年は、そなたらが経験した束の間の奇跡のほかに、大切な人が目の前で自分の命を絶つことを止めることができなかった経験や、同じく大切な人があまりの悲しみを味わったせいで心が壊れていく様を、みていることしかできなかったという経験などもしている」
「なんと……」
「こんな小さな少年が……であるか?」
「そんなことって……」
竜人と、彼とほとんど同じ気持ちで話を聞いていた隆景や美里は、突然の話の内容に言葉が上手く見つからない。
年齢的に言えばかなり稀だろうことだから、言葉だけではにわかには信じがたいことだが、術を見ていた三人は祐一の叫びを先ほど聞いている。
むしろ、あれだけ心に響く、正に「叫び」と呼ぶべき思いのことを考えると、納得もできるから、三人は金老狐の言葉を否定する気は起きなかった。
しかし、衝撃的であることには変わりない。
「そして……この少年はもう二度と同じようなことを目の前で起こさせぬため、死に物狂いでいろいろな力を会得した。その気持ち、そなたらにならわからないものではないであろう?」
「「「………」」」
その時の、力を求める気持ちはよくわかる。
わかりすぎるくらい分かるが故に、三人は言葉がなかった。
何故なら、だからこそ、今の自分は、自分の道を極めるように生きてきたのだから。
二人は天野家のものとして、一人は、医者として。
「そうして得た力を、ただ助けたい一心で祐一は使ってくれたのだ……そんな少年に、余計な疑念を抱くのは、そう、人として不出来というものではないのかな?」
「……そうじゃな、確かにその通りじゃろう。祐一君が何者であれ、夕菜を救ってくれたことには変わりはない」
それに、祐一が金老狐から色々話は聞いているとすれば、大概のことは強引にだが納得は出来る。
美里や美汐のような台詞をわざと口にした金老狐には、竜人も少々渋い表情を浮かべたが、確かにその通りとも思う。
ただ、その美汐との関係だけは、どうしても疑問が残るのだが、余計なことを考えるのはよそうと竜人は頭を振る。
なかなか、今日一日の展開は急だったため、頭の整理はおっつきそうもないが、これだけは言えるのだ。
自分達にかなえることができなかっただろう、最も大切な願いをこの少年は叶えてくれたのだ――と。
「……確かに、罰が当たるやも知れませぬな、疑ってかかっては。……あのままでは、拙者たちは結局何も出来ずに終わっていたというのに」
竜人の気持ちは、隆景のそれと同じだったのか、彼の気持ちを代弁するかのように隆景は呟いていた。
美里も、気持ちは同じなのか、沈んだような心持で頷いていた。
祐一は、怪しむべき、謎を持つ少年かもしれない。
しかし、それすら無価値にしてしまうほど、夕菜を救ったということは、この三人にとっては至上の価値だった。
それだけに、こんな大事なことだったのに、また何も出来なかったと三人は沈み込む。
夕菜が助かったことが嬉しいだけに、その根は深く、儚げな表情だった。
「それは、違います。隆景さん」
「「「「「!?」」」」」
美汐や金老狐が、そんな三人に何か言おうとした時、眠っていたはずの祐一が突然上体を起こして、言葉を発する。
突然のことに、声をかけられた隆景だけでなく、美汐や金老狐も驚くしかなった。
「そもそも、竜人さんとお孫さんが夕菜を見つけ、隆景さんが治療なさっていなかったら……そのときすでに夕菜は死んでいたんです」
「し、しかし」
「何もできなかった、訳ではないことは事実ですよ。だから、そんなにご自分を苦しめないでください。隆景さん、そして、竜人さん」
「「………」」
奇跡の始まり、それこそ夕菜、そしてタカトの命を救う行為だったのだ。
そして、その始まりが、どれほどあの子たちにとって意味あるものかを考えれば、何も出来なかったわけじゃないと祐一は信じる。
だから、祐一の言葉は力強かった。
隆景も、竜人も、その力強さに頷いてしまいそうな気になり、颯爽言葉もなかった。
「それに、美里さん」
「わたくし……ですか?」
美里自身、竜人と隆景は良くやったと思っていた。
しかし、自分は今も昔も当てのない救いを求めるしか出来ないほど無力だったと思っている。
だから、自分にも竜人たちと同じような優しさを向けてくるとは思わなかったため、彼女は本当に驚いていた。
「夕菜の世話もあなたがいなければ、料理一つとってみても、上手くいかなかったのではないですか?」
「そうじゃな、わしはそういうのは少し苦手じゃしな」
「私も、お婆様がいろいろと教えてくださったから、多くのことができたのですよ」
「竜人さん、美汐さん……っ」
そんなこと、当たり前ではないですかと、言葉を続けそうになるも、何故か瞳から溢れ出かけてきたもののために美里は言葉が続かなかった。
慌てて片手で口元を抑えた所で、残りの自分の手に、そっと孫がその手を添えてくる。
はっとなって、美里は孫の顔を見ると、本当のことですよとばかりの微笑みが目に映る。
そして、ふと視線をずらせば、彼や美汐の言うとおりじゃ、感謝しておるよ、とばかりにしっかりと優しい表情で頷いてくれる夫もいる。
次第にその瞳は歪み、美里は声を殺してその雫が出てきた目を閉じて、俯く。
夕菜にとって、タカトにとって、この家で過ごしたときはどれほど楽しいものであっただろうか。
それを考えれば、その生活を支えたこの女性は、何の力にもなれなかったとは言えないはずである。
そう、自分の場合ならば、ちょうど秋子さんが、そうであったように――と、祐一は美里を見ながら、切なくも、優しい表情を浮かべていた。
「誰も、何の力にもなれなかったわけではないです。タカト君も、あなたたちと一緒にいれた時間、楽しそうだったじゃないですか。それに……夕菜がこれから生きていくにはあなたたちの力が必要です。守ってあげてください。これからも」
「「「………」」」
「ね!」
「そうじゃ……な」
切なさと優しさを感じさせながら、けれどつとめて明るい口調と表情で呼びかけてくる少年に、竜人は頷くしかなかった。
数十年前のことながら、今でも鮮明に思い出せてしまうあの幼い笑顔を思い、そして、ここ数日の夕菜の笑顔を思い、過ごした時間とこれからすべきこと、確かにその通りだと泣き笑いのような表情を浮かべながら頷く。
美里は、声は出せそうもなかったけれど、美汐に寄り添ってもらいながらも夫と同じ気持ちだった。
この命が続く最後のその時まで、夕菜のことは守っていく――と。
「隆景さん……俺は医学の知識はあってもそれを行うだけの腕はありません。貴方はそれが出来るんです、凄いじゃないですか」
「拙者は、医者、であるよ、当たり前の、こと……」
「それでもです。出来ない俺にとっては、それが……羨ましい」
「そう、であるか」
「はい、これからも、俺は貴方のその出来ることを応援しますよ。それは決して無駄なことじゃないはずですから…」
「……そう、であるな」
もとより涙もろい性格である隆景は、美里のその心が発露を見せたときから、静かに泣いていた。
それに、数十年前から、この三人の中ではあるいは最も今に続いている心の氷床が、祐一の言葉で少し溶け出していくようで、それが瞳から出て来る様で困っている。
自分が出来なかったことをやってのけた人間に言われても、とも思うが、祐一の切なげな表情が、その考えをとめてしまう。
この少年が救えなかった命の中には……自分のような力があれば救えたものもあったのだろうかとふと隆景は思ったのだ。
隆景の場合は、まだまだ氷床が全て溶けるには時間がかかるだろう。
けれど、タカトの時の嘆きも、夕菜の時の絶望も、もう味わってほしくないと祐一は思い、できるだけ彼の力になるつもりだった。
今回は、彼の心の氷に変化をもたらすことだけはできればと祐一は思っている。
祐一の思いは、嘆きや絶望に敏感になってしまった彼の心なればこそのもの。
この時点ではそれが独りよがりなものだと評価されてしまうものだとしても、これからの時間で、それは変わっていくことになる。
「んで、大聖金老狐、あんたもな」
「何がだ?」
そして、最後にもう一人とばかりに、自分の数十倍は大きく、自分の歳を百倍しても足りないくらい生きている存在に臆せずに向き直る。
まさか、自分にまでとは思わず、金老狐は心から驚いていた。
「俺が使った術はあんたがいなくちゃ話にならなかった。夕菜には一番適した属性の力だし、ほら、力になれたじゃないか!」
「我の心をも救うか気だったのか? ……本当に、見事だな」
「よせやい……俺は何でもしたがるわがままな野郎なだけ…さ……。(ドサッ)」
そこまで考えていたわけじゃないさと、笑って、祐一はそのまま布団に再び倒れこむ。
すぐに意識は眠ってしまったらしく、起き上がる気配はもう微塵もない。
「無理しおって……疲れは極限まで高まっておるはずだというのに」
そんな祐一を見て、金老狐は呆れたような言葉を口にする。
しかし、その眼差しには、驚愕と畏敬、様々な思いが込められていた。
何より、先ほど正に言われたとおりに感じ、その心が軽くなっていたのだから。
それすら考えて選んだ選択だったのかと、金老狐は驚愕しているのである。
時の番人が信じた人間だけはあると、今、正に金老狐は納得させられていた。
「相沢さん……」
美里も大分落ち着いてきたようで、美汐はまた倒れこんでしまった祐一に驚きながらも、複雑な表情で祐一の手をとり彼のことを案じていた。
突然起きた時は、心底驚いたが、その後に続いた行為の意図にはすぐ気付くことが出来たので彼女はフォローに回った。
今の行為には、美汐も本当に感謝しているし、祐一がしなければ、何れ自分が何かしていただろう。
自分のことで精一杯だった美汐も、今は周りに目を向けるだけの強さを身につけている。
だから、大切な、大好きな祖母たちのためにしてくれたこと自体には感謝の念しか浮かばない。
しかし――
(先ほどの言葉……私は貴方にこそ言いたいです!)
――何故、自分はその言葉の対象から外しているのかと、怒りたくはなる。
祖父たちには見えないよう気をつけながら、美汐は静かに涙を流していた。
美汐は、祖父たちに負けないくらい、何も出来なかったという思いで、自分を傷つけた祐一のことを知っている。
だから、少し許せない。
他人には、そんなことはないと優しく出来るのに、自分は傷つけるだけなど、なんと勝手な人だ――と。
そして、彼女はまだ静かに涙を流す。
どれだけ……不器用な人なのだ――と。
だが、確かに、先ほどの言葉、祐一は自分にはまだ向けれないかもしれないが、その言葉を祐一に教えてくれたのは誰あろう、彼女である。
だから、何時かは必ず、祐一も認めることは難しくても、受け入れることは出来るようになるだろう。
彼に、教えてくれる人が、いる限り。
「それにしても……凄い少年じゃな」
「まったく、である」
「本当で、ございますね」
さてしばらくすると、竜人、隆景、美里は気持ちが大分落ち着いたのか、穏やかな表情を見せていた。
そして、落ち着いてこの少年のことを考えてみると、三人ともどうすればいいか困った、とばかりに三人とも笑っていた。
改めて先ほどのことを思い返すと、わざわざ、自分で不思議を増やしてまで、この少年は自分達の心をも助けようとしてくれたのだな――と。
美汐のことだけでも、疑問は残っていたのに、まるで見ていたかのように自分達の過去について少年は話していた。
不思議に思うなという方が無理であろう。
そして、同時に、いったい何処まで優しい人間なのだと、三人は笑顔を浮かべるしかなかった。
これでは、不思議に思っても、返って詮索できないというか、したくなくなるというもの。
けれど、恐らく、あまり考えずに、やりたいことをやったのだろう。
その辺りは、子どもっぽく、しかし、やったことは、尊敬すらしてしまいそう。
どうしたら、どう思ったらいいのやらと、やっぱり三人とも笑うしかなかった。
(ふむ、随分な策士なのか……相沢祐一とは)
(いや、そこまで信じなくていいんですよ……っ!?)
ただお一方? 少し、誤解中。
また、その思考を知り、彼は本能のまま動いて、結果がついてくる不思議な人なのですと、遠き地でツッコミを入れたがって転げまわっている存在がある。
もとより、いつも祐一たちを見守っている彼だが、今回は色々、金老狐には特に言った手前、いつもより熱心に時の水晶を眺めていたのである。
ただ、露骨に楽しんで彼らを見ているのは、金老狐だけが、理由ではないようだが。
「……む、すまぬ、我は少し席を外させてもらう」
「ん、どうしたのじゃ?」
「いつまでも我がこの世界にこの姿で具現化していてはあまりよろしくないのでな」
「そうなのか? い、いや、たしかにそれもそうじゃな」
「うむ、では、また後でな……」
また時間がやや過ぎた後、自分の体というより、周りに異変を感じた金老狐は、しまったとばかりに体を動かす。
そんな金老狐の急な行動に戸惑い、同じように驚いた皆を代表して竜人は尋ねた。
そして、帰って来た返答に対して一瞬戸惑ってから、慌てて頷く。
竜人もその特殊な立場から、こういった不可思議な力には詳しい。
ついこれまで自然に話してしまったが、相手は所謂「降臨」している状態なのである。
そんなことをずっと続けていれば、世界に歪みをもたらすは道理なのである。
「ん?」
だから、素直に帰る言葉に頷いたものの、忽然と消えていった金老狐のある一言に、竜人は引っかかった。
「また後で、であるか……?」
(? 真琴の件はまだ先の話のはずですが……?)
再び、その竜人の気持ちを代弁するかのように、隆景がポツリと呟く。
続いて、全員そろって小首をかしげている。
まるで、すぐ戻ってくるかのような口ぶりはどういうわけなのだろうか、と。
あれだけの存在が、この世に姿を現すだけでも大変であるし、そして四人の中では一人、彼女だけが知ることも考えながら美汐は不思議に思うのだった。
クゥ〜〜〜〜
しかし、意識あるものが全員、そんな風に悩む中、場違いのような音がなる。
誰のお腹かはわからないが、お腹の虫がないているのである。
「あらまあ……お昼の時間は既に過ぎてしまっていたのですね」
「おお、そうじゃな、祐一君が来たのが午前の大分早い時間帯だったというのに、結構時間が経っておるな」
「急いで、支度いたしますわ」
「うむ。わしはこの子らのためによい食材でも仕入れてくるとするか」
「拙者も手伝うである、獲物や魚はともかく、茸や山菜などは竜殿では少し不安であるしな」
「……悪かったの」
「それでは私は――」
「美汐さん、竜人さんたちを待たなければいけませんから、どうせすぐにやることはあまりありません。二人についてあげてくださいな」
「――わかりました」
ふと、全員が時計を見上げれば、もう13時を回っていたのだ。
思った以上に時が流れていたことに驚きながら、それだけ祐一はがんばってくれたのだなと改めて思い、御礼と、そして夕菜のことを考えれば、お祝いをせねばと、美里は張り切ろうとしている。
竜人も同じ気持ちだったので、思いついたことを口にしていた。
隆景はそれを聞き、同調するも少々不穏な言葉を続けている。
実は、仕入れではなく、調達なのだろうか?
というような質問をする人間はここには残念ながらおらず、美汐すらも普通に流してしまっている。
この家では、普通のことなのであろう。
「夕菜……相沢さん」
それに、美汐の思考は、料理のことよりも、やはり静かな寝息を立てる二人のことだけに向いていた。
竜人たちが居間を後にしてから、美汐は今まで以上に露骨に感情を表にしながら、二人の布団をかけ直してあげたりしていく。
夕菜を見ているときの美汐は、その瞳から溢れるものを止められそうにないようで、何度もふき取りながら抱きしめたい衝動にかられるほどに、愛しく思っていた。
そして、少し自分を落ち着けた後は、祐一の方に向き直る。
彼の額に手を当てながら、本当に切なそうな表情で口を開く。
「相沢さん……本当に無茶なことをしてくれます……」
「いや、そうは言ってもな、あれはあれで今のところ、一番確実な方法だったんだぞ?」
「ふわっきゃあ!?」
「どど、どうした?」
「んぐ、〜〜〜〜〜!」
静かに寝ていると思っていたので、実は起きているなんて夢にも思わなかった美汐は一度も発したことのないような言葉を口にしながら仰け反った。
逆にそこまで驚くとは思っていなかった祐一もまた、美汐の反応に驚いていた。
そんな祐一を見て、驚いたのはこっちですと美汐は言いたいが、舌が上手く回らなくて噛みそうになり、少々混乱中。
けれど頭の一部は冷静なもので、相変わらず、話の流れというか、こっちの予想しない行動や言動を行う人ですね、と愚痴のような思いも同時に抱いているのだから、結構彼女も凄い人だ。
「ふぅふぅ……と、相沢さん、起きていらしたのですか?」
「ん? ああ、ちょうど今ってところだけどな。お腹がすいてよく眠れなくてなあ、すんごく疲れてるけど」
「そうですか、食事の方は、今、お婆様たちが用意してくださっていますので少し待ってくださいね」
「おう、それは楽しみだ」
うれしそうに笑っている祐一。
年齢が下がっている分、余計に無邪気に見えて美汐は微笑む。
けれど、少し思うところがあって、その笑みは切なさも混じる。
今起きたばかりで、あんなにはっきり返答できるはずがない。
自分が夕菜のことを思い、気持ちの整理がつかない間、落ち着くまで静かに待ってくれていたのだろう。
相変わらず……素直じゃないけど、とても優しい人だと、美汐は思い、自然と笑みが長く続いていた。
「………っ」
祐一はそんな美汐に少し見とれてから、すぐに美汐からやや視線を外している。
何故なら今の美汐の表情は、恐らく今後も自分の恥ずかしい姿ナンバーワンに輝くだろうあの時、自分を助けてくれた時の笑顔に似ていたから。
恥ずかしいのだけど、悪い気はしないというか、癒されてしまうので、無性に敗北感も感じる、やっぱりナンバーワンだこんちくしょうと祐一は妙な思考を頭の中で展開していた。
「「………」」
そして、弱冠気まずくなって、いや、そうとも言えるがそうではなく、言いたいこと、聞きたいこと、伝えたいことがいろいろありすぎて、どれから話せばいいかわからなくて、二人とも黙ってしまった。
けれど、美汐としては、ちょっと見慣れぬ態度をとる祐一が新鮮で、もうしばらく見ているだけでも大丈夫だった。
だが、元々本人思わく「不利」な状況の祐一からすれば、耐えられそうもなかった。
そのため、少々きつそうにしながらも上体を起こして美汐に質問しようと口を開く。
「なあ、天野?」
「なんでしょうか? あ、あまり無理をなさらずに」
「ああ、すまない、大丈夫だ。それでなんだが、術を使っていたあの時の会話で、確信はしているけど、お前、本当に……?」
「はい、私も、時をこえてきた、というわけです」
「……あの野郎、一言もそんなこと言ってなかったぞ」
「まあ、あの性格の方ですし……」
あの野郎が誰を指すかは、美汐にはよく分かる。
そのため、私も同じ気持ちですよと苦笑を浮かべながら呟く。
「まあ、相沢さんだけでは、心配というもの事実なのですけど」
「んだとー」
「……否定、できますか?」
「あうあう、そんな悲しそうな顔しないでください、もう無茶しません、はい、全く否定などできようはずもございません」
「本気で……心配したんですからね」
「すまん……」
時を遡ってみれば、祐一がボロボロな姿が目に映ったのだ。
どんな思いを美汐が抱いたのか、想像に難くはないだろう。
美汐の表情が泣きそうだったから、祐一にも彼女の気持ちが少しは分かったのか、うなだれる様に謝っていた。
「しかし、ということは、やっぱりこっちに来たのはあの時か、最初に出会ったときは反応なかったし」
「ええ、夕菜のことは、覚悟はしてましたけど、相沢さんのあれは驚きました」
「す、すまん、しかし、計ったようなタイミングだなあ」
「確かにそうですね……?」
そして、やはりこの雰囲気に居たたまれなかったのか、祐一は話を続けた。
なかなか、雰囲気が変わらない美汐に困りながらも、だんだんと弱冠持ち直せたことにほっとしてから考える。
美汐もそういえばと、考える。
「「これも……あいつ(あの方)か(でしょうか)?」」
(にっこり)
「なあ、天野、今、遠い場所で、誰か笑ったよな?」
「はい……そんな気がしました」
(おお、二人とも感が良いねえ)
「「………」」
実際は聞こえてはいないのだが、鮮明に想像できて祐一も美汐も言葉がない。
気分は掌で弄ばれている孫悟空。
しかし、別に自分達にとってマイナスというわけではないので、二人とも苦笑を浮かべるしかなかった。
「けど、天野、お前だって無茶だと思う」
「はい?」
「時を遡るってのは、良いことばかりじゃないぞ」
「そうですね、それは、この時間の私と融合した時になんとなくわかりました」
「う……」
「? どうかしましたか?」
「いや、俺がそのことに気付くには、結構時間がかかったのですが……?」
「あはは……多分それは、未来の相沢さんの記憶や思いが強すぎたんですよ」
「うー、みっしー、頭良いよ、俺、馬鹿だよぅ」
「いえ、単に条件が違っただけだと……」
「うー」
この時間に来て、母に心配かけて、やっとこさ学んだような時間逆行の意味をあっさりと理解した美汐に祐一はジェラシーを感じている。
意外と、不貞腐れ方はあのいとこと似ているのかもしれない。
美汐は、やっぱり祐一の行動は予想しきれないと悩みながらも、フォローしている。
実際、過去の自分も溶け合っている美汐としては、やはり祐一が未来から持ってきたものは色が濃すぎたのだと思った。
しかし、過去の自分があって、未来の自分がある。
だから、「異」ではあるが「同」でもあり、どちらも消滅はしていない。
それだけに、問題は複雑なのですが――と、美汐はこの業の意味を思って、心の中でひとりごちる。
弱冠、祐一と美汐は理解が違っている事があるのだが、それに気付くのは、まだ先の話。
そして、祐一が、学んだことを思い出して、今回の自分の行動に何か引っかかるものを感じた点もまた、まだ先の話である。
さて、美汐は、この話はいずれと思い、話を戻すために口を開く。
「無茶ではあるかもしれません。ですが、何が何でも側にいると申し上げたはずですよ?」
「いや、しかしだな」
「それに……あの時の間で私は、相沢さんをずっと見ていたんです」
「へ?」
「ですから、見ているだけも嫌なのに、何も知らずに、しかも助けてもらうなんて、もっと嫌だと思いました」
祐一の時の間での挫折も、苦労も、全て美汐は見ていた。
見ていることしか許されていない自分が辛かった。
そして、もとより、一緒に強くあろうと約束もしている身。
だから、どうしても、彼女は祐一の力になりたかったのである。
「あそこで会うのは許してくれませんでしたし、もともとあの資料室のような場所に入ることも私にはいつでも許されてもいませんでした。なのに、過去でも何もせずにいるなんて、耐えられないですよ」
「……そっか」
「はい」
「まあ、お前の気持ちは分かったよ。俺としても正直嬉しいし……ん、ちょっと待てよ、いつでもってことは、少しは入れたんだな? あの時のってもしかして……?」
「私との会話のビジョンのことでしょうか? あの時は、本当に見ているだけなんて嫌で、泣きそうだったのですが、後ろからポンポンと肩を叩き、おもむろにこのボタンを押してみてとあの方が言ってきて」
「………」
本当にあの野郎と言葉もない祐一。
美汐の切実な気持ちを理解した祐一としては、良いように扱っているようで腹も立つ。
しかし、恐らく自分にとって最良の形で、あの場を助ける方法をとったのであろうから、怒れないだけに、余計に腹が立った。
あの時、誰かに頼ってしまっていたら、恐らく、自分は何も見つけられなかっただろう。
本人自身甘くないと言っていたが、本当にそうなのだから、こちらとしては本当に怒るべきか感謝するべきか、悩む。
(今さらだがな……感謝はしとく、時の番人)
(どういたしましてー)
「………」
しかし、感謝するしかないだろうと、心の中で思ったところ、空耳だと思うのだが、なんか聞こえてきた気がした。
だが、とってもあっけらかんとしていたのは、気のせいではないかもしれない。
祐一は再び、絶句していた。
「ふふ……あ、そういえば、私はこの言葉を相沢さんに贈らないといけませんね」
美汐もなんとなく、祐一と同じ思いだったのか、あるいは、やはり空耳が聞こえていたのか、笑っていた。
だが、あの過去のビジョンを思い出して、そういえばと呟く。
「ん? なんだ?」
「相沢さんは、私を救うことができましたよ」
「!?」
あの時とおなじように、祐一は驚く。
この言葉は、自分を救ってくれた言葉とほぼ同じ。
違うのは――
「今度は過去形ですけどね。本当にありがどうございました、相沢さん。私が言った方法とは違いますけれど、夕菜を、あなたはちゃんと助けてくれました」
「……俺は、また、天野の言葉に泣かされちまうのか?」
祐一は、また、ナンバーワンの再来かよ――と、心の中で一瞬抵抗したのだが、やはり敵いそうにもなかった。
同じ笑顔、同じ声、そして明らかに良い方向にレベルアップした言葉。
自分の潤んだ瞳が、敗北宣言を行うのは時間の問題だった。
「それは、何と言いますか、光栄ですね」
「はは……天野」
「はい?」
「今の言葉……やっぱ、俺にはありがたすぎるぞ。俺を何回泣かせる気だ? でも……そっか、俺は……ちゃんと救えたんだな」
「はいっ」
先ほど、祐一にこそ、言いたいと美汐は思った。
あの時の言葉そのままは今は効果があの時と変わらないなら、今度は確実にできたことを言って別方向から攻めるまで。
だからこそ、言葉を贈り、そして、祐一の言葉に力強く頷く。
助けたい人を助けることができましたよ――と。
本人に自覚はないであろうけど、そういった言葉が、祐一が何よりも切望しているものなのだと美汐は思う。
この人の心も、誰よりもまた傷ついているのだから。
「天野……」
「はい?」
「よかった……。(クラッ)」
「あ、相沢さん!?」
美汐の言葉に、安心しきってしまったのか、祐一はふらりと気を失い、起こしていた上半身が、側にいた美汐に向かって倒れていった。
美汐は驚いたものの、辛うじてその体を受け止めて、やはり、疲労がたまりすぎているのかと思い、穏やかに抱きとめる。
「よかったですね……相沢さん」
これで、二回目ですねと思いながら、目を閉じて、静かに祐一の体を美汐は抱きしめる。
でも、あの時と決定的に違うことにきづいて、美汐は本当に嬉しく思う。
祐一の表情は悲しみにくれた泣き顔ではなく、見るものまで何故かほっとしてしまうような、すっきりとした嬉しそうな澄んだ表情をしていたのだから。
「これからも、きっと、大丈夫です、相沢さん」
それに、祐一の影は増えていないと感じたから、きっと舞と佐祐理という方の未来も変えることが出来たのだろう。
だから、思う。
これからもまだ続くこの人の道も、きっと大丈夫だ――と。
そうやって、優しく抱きしめながら、自然に言葉を贈り、励ます美汐。
意識のない祐一にも、それは、子守唄のような効果が出ているのではないだろうか。
祐一の安らいだ寝顔が、そのことを示しているように思える光景……なのだから。