「こんなことがあったのか…」
時の番人に連れられ、図書館のような場所に連れられてきた祐一は様々な過去を映像や本を通してみていた。
ただ事実がそのまま見れるだけでなく時の番人によって整理された背後関係なども『見る』あるいは『読む』ことが出来る。
その過去には感動的な奇跡から、戦時中の人体実験に至るまで実にいろいろあった。
「この中から……本当に見つけられる…のか……?」
存在する知識の膨大さとでも言おうか。
そういったものを実感し始めた祐一は、少しだけ自信を失っていた。
そして、普通の世界から見れば数ヵ月がたったころ――
「くっ、俺には無理なのか……?」
探しはじめてから数ヶ月、祐一は一つ目の試練とでも言うべきものにぶち当たっていた。
光明が一向に見出せないことへの苛立ち。
探す対象となる資料があまりにも多すぎるという絶望感。
そういったものに祐一は心が負けつつあった。
「見つからない……あいつらを救う方法が……所詮無理だったのか……誰一人救えなかった俺には」
祐一は焦り、そして、大切な少女たちのために何もできなかったと言う思いから来る絶望感までもが再び呼び起こされていた。
今、彼は当初の決意がゆらぎ、瞳には曇りすらうかがえるような状況になっている。
一人で出口のない迷路を数ヶ月の間迷っていたと喩えられるような彼は、大事ないくつかのことを忘れてしまっていた。
だが、そんなとき――
『相沢さんは、私を救うことはできますよ』
「!?」
聞こえるはずのない声が祐一の耳に聞こえてきた。
「今の……声は……」
彼は声のした方に目を向ける。
そうすると眼の前には、1つの、最も近い過去のビジョンが映し出されていた。
『この丘はやはり美しいですね。昔と、変わりません…』
『そうか……だけど天野、俺をここに連れてきて何か用でもあるのか……?』
そのビジョンの中で、祐一は一人の少女に連れられ、ものみの丘と言う名の丘に訪れていた。
この丘は、束の間の悲しい奇跡を起こす狐――不思議な力を持った狐たちの住む場所。
祐一とこの少女――天野美汐はそんな束の間の悲しい奇跡をそれぞれに体験し、辛い別れを経験したものたちである。
そんな通ずる所のある二人のはずなのだが、何故か祐一の方はどこかよそよそしい態度を見せている。
しかし、どちらかというとこの少女に彼は好意的にかつては接していたはずだった。
尤も、物凄く仲が良かったと言うわけではない。
だが、そうは言えたとしてもこの態度の変化はやはり大きいものだった。
何故彼が変わってしまったか――その答えは、彼の姿そのものが表していた。
今の祐一はまるで全てを寄せ付けないかのような暗い感情をその身に宿している。
それは彼が悲しみのために、あまりにも傷ついているということの表れ。
彼は別に美汐を特別避けているのではなく、全てを避け始めていたのだ。
『相沢さん、そんなに辛そうな顔をしないでください…あの子が悲しんでしまいますよ』
自分の知る限り、この人はこんな態度を自分に見せる人ではなかったと美汐も気付いていた。
やはり、変わりすぎてしまっていると彼女は思い、少し悲しげな表情を浮かべながら言葉を紡ぐ。
あの子――沢渡真琴は美汐がかつてこの丘で出会った狐と同じ類の存在。
何の運命の悪戯か、あの束の間の悲しい奇跡――最後には悲しい別れが待っているあの奇跡に再び関わった美汐は、最初はどうすればいいのか自分でもよくわからないままに、祐一に接した。
だが、話しかけ始めた最初のころ、彼女は祐一に真琴の友達になってほしいと言われてしまい、また傷つく恐れを感じたのか、拒絶しようとした。
しかし、完全に拒絶することは出来ず、時間が少し経ってから、彼女は何も知らなかった祐一に真琴の正体を教えていった。
さらには真琴の友達にもなってあげ、祐一と真琴を最後まで見守った。
祐一に自分のように心を閉ざして欲しくないという気持ちが美汐のどこかにあり、その優しさが、彼女にこの行動をとらせたのだろう。
そして最後まで見守った彼女は、不思議と後悔はしていなかった。
もしかしたら無意識の内に、こんな期待が彼女の中にはあったのかもしれない。
――この人にはある約束をしていたから、その約束をもし果たしてくれたなら、自分も変わっていけるような気がする――
そんな希望を持ちながら、彼女は奇跡が終わった後も祐一を見続けていた。
だけど、どうだろう?
この人は自分のように、いやもしかしたら自分以上に変わってしまった。
そう思った美汐は最初は絶望し、再び心を閉ざしかけた。
しかし、どうしてこの人がこうなってしまったのか、彼女は理解できなかった。
或いは、秘められていた期待が彼女に理解させようとしてくれなかったのかもしれない。
とにかく、心の中に残るそんな疑問が、彼女に祐一のことを調べると言う行動に移させていた。
そしてある程度事実を知ったとき、彼女は心底衝撃を受けた。
調べることはそんなに難しくなかった。
というより、何もしなくても彼女の耳に事実が入ってきたとも言えた。
さほど広くはないこの街である。
祐一の叔母の事故のニュースは簡単に耳に入っていた。
さらに美汐の高校では、同級生が病死、先輩数名が入院、一人は自殺もしているのだ。
何もしなくてもこれらの事実は当然のように彼女の耳にも入っていた。
そして、その人たち全てと祐一が知り合いであることは少し調べればわかることだった。
――こんなことって――
彼女は、事実を知ったとき、その言葉を言わずにいられなかった。
これだけ様々な出来事を瞬く間に経験した彼。
一体どんな気持ちになるというのか。
あの丘の狐との別れだけでも自分は本当に辛かったのに、もしこんなことが自分に起こったら――そう考えただけで彼女は身が切れる思いがした。
そして、彼女は動かずにはいられなかった。
彼女は、自分と同じ心の痛みを知る人がこんな目にあって、何もしないでいるような冷たい人間では無かったのだ。
いや、むしろ、とある経験のために不幸にも心を閉ざして過ごしてきたとしても、その本質は人一倍優しい心の持ち主であるのだろう彼女だからこそ、何もしないではいられなかったのだろう。
だから、今日、彼女はここに彼を連れてきたのだ。
自分に出来ることを、するために…。
『……あの子……真琴か……俺はあいつに何をしてやれたんだろうな』
『相沢さん、あの子は、あの子たちの気持ちは――ただ側にいたい――それだけだったんですよ。だから、あなたは――』
『だけど、結局俺は見ていることしか出来なかった。栞に対してもそうだった……』
『相沢さん、それは――』
『それだけじゃない……舞の命を俺は救えたはずなんだ! それなのに!』
『相沢……さん…』
真琴の側に最後までいてやったこと。
それがちゃんと出来たではないかと美汐は言おうとした。
だが、その言葉は祐一の感情のない言葉で止められた。
なんとか美汐はそれでも言葉を続けようとしたが、感情の消えていた祐一の中に突然現れてきた悲しいくらいまでに激しい感情。
声を聞き、姿を見ている者が心に痛みを覚えるほどのその辛い感情に気圧された美汐は、言葉を続けることは出来なかった。
『そして俺は……まだ死んではいない奴らのためにすら……何も出来なかった。あゆにも――』
――あゆ、俺たちは約束したろ! それにまだ俺はお前の最後の願いを聞いていない! だから――
『名雪にも――』
――秋子さんはまだ死んじゃいない! だから、目を開けてくれ、名雪――
『香里…にも――』
――栞は最後まで笑顔だったんだぞ。お前がこのままじゃいけないだろ!――
『…意識は…あるはずの…佐祐理さんにも――』
――舞は最後まで俺と佐祐理さんの思い出を大切にしていた。佐祐理さんの悲しい顔、あいつ大嫌いだったじゃないか、だから……佐祐理さん!――
『――俺の声は……誰にも届かなかった。何もできなかったんだよ……俺は』
(相沢さん……)
祐一から感じられる辛すぎる感情――それは、涙こそ見せないが徐々に自分の言葉に傷つけられていくような彼を見、そして、彼の悲痛なその声を聞いている美汐の方が耐えられなくなりそうなくらい痛々しいものだった。
祐一は四人がいる病院――最初はここにいるとは知らなかったあゆのことは秋子だけでなく名雪たちまで入院したことにより、何度も訪れているうちにその病室の存在を偶然知った――その病院で自分の考え付く全ての言葉を使って、彼女たちに呼びかけた。
しかし……彼女たちが目覚めることはなかった。
意識だけはあると認知されている佐祐理ですら、その自分から遮断したかのような感情を呼び戻すことは出来なかった。
(でも……ここであきらめるわけには……いきません)
祐一の味わった無力感は並大抵のものではない。
それは、美汐もわかりすぎるくらい理解させられた。
だが、彼女は精一杯気持ちを奮い起こし、自分がここに来る前に決心したことをしようとする。
『……相沢…さん……少しだけ……私の昔話に…付き合って…いただけますか?』
『え……?』
美汐は祐一から感じられた感情に、やや打ちのめされていたといってもいい状況ではあった。
だから、言葉をその口から紡ぎだすことすら、容易にはできなかった。
それでも、自分の言うべきことを言い切る。
祐一は彼女の言った言葉の意味がすぐには理解できず、不思議そうな表情をしている。
だが、そのことはつまり、今度は確かに彼は反応を見せてくれたということでもある。
それは彼女の真剣な様子が、再び祐一に何かを与えたのか、少しだけ彼に感覚というものを呼び起こさせているということを示していた。
『…この丘で私はあの子と出会いました――』
そして、祐一が反応してくれたことを少し嬉しく思いながら、美汐は祐一に詳しくは話していなかった自分の過去の全てを話し始めた。
今までは思い出したくもなかったあの悲しい別れ――その過去を再び口にするということは、彼女にとって禁忌であるとすら言えた。
しかし、彼の心を救うために彼女はある決心をしている。
そのためにはまず、自分の過去を話し、心を開く必要があった。
ならば、迷わない。
いや、迷ってはいけない。
彼女はそう自分に言い聞かせながら、その禁忌を自ら破っていく。
自分と同じ悲しみを知る彼の心を、少しでも救うために……。
『――今話したことが、私の過去にあったことなんです』
『そう……か。すまない。真琴のことで辛い目にあわせてしまったな。俺はみんなを救えないばかりか、天野、お前まで傷つけていたんだな』
そして、美汐は自分の過去を全て話し終える。
話を聞き終わった祐一はその瞳の光を完全に失いながら、彼女に謝る。
彼の思考は無力感にさいなまされすぎたことから、全てが自虐、後悔、悲しみの渦に支配されている。
そのことが、ありありとわかる暗い表情だった。
『何故、謝るんですか?』
『え……?』
美汐はそんな祐一を見ていることに辛さを覚えながらも、ほとんど見せることもなくなったはずの笑顔をしっかりと祐一に見せながら話しかける。
祐一は美汐のそんな笑顔――出会った時には想像もできなかった穏やかな優しい笑顔――それを見て、そして優しさを秘めた今の言葉を聞き、まるで心にあった闇に光の欠片を投じられ、驚いたかのように、半ば呆然として彼女を見つめていた。
『確かに、辛いと思う部分もあったかもしれません。でも、あなたと真琴に出会えたことを、私は少なくとも後悔はしていません。いえ、むしろ、会えたことは嬉しいんですよ。だから、謝る必要なんてないです』
『そうなの……か?』
『はい。それに、私はあなたに私のことを知ってもらいたいから、私の過去を話したんです。ただそれだけなんですよ。
だから相沢さん。そんなに自分を卑下して、悪い方に捉えないでください』
『しかし……』
『今まで誰にも話せなかった辛さを、自分の痛みを分かってくれる人に吐露してみたいと思っては、いけませんか……?』
『………』
美汐はどこまでも澄んだ穏やかな表情で祐一を見つめながら話していく。
その表情はもう心を閉ざしていた少女のものではない。
年相応の女の子らしいかわいらしい表情だった。
祐一はそんな美汐の表情に心を洗われる気がして、彼女の言葉を否定する気はとてもおきず、言葉を失っていた。
『それに相沢さん、そんなに自分を傷つけないでください。相沢さん自身、辛いことがたくさんあったのです。だから、これ以上貴方が自分を苦しめる必要はないはずですよ』
『そんなことはない……俺は――』
『ふぅ……やはり、決めました』
『――えっ?』
たとえ美汐の優しげな表情に心を救われるような気がしていた祐一であっても、彼はやはり自分を許すことまではできなかったようだ。
そんなどこまでも自虐的になっている彼を見て、少し悲しげで、それでいて溜息めいたものを美汐は漏らす。
少し溜息めいてしまったのは、あまりにも悪い方向へ彼が向かっていると言う現実に、ある意味あきらめにも似た感情を抱いた事から出たもの。
しかし、それは、彼の心を救うことをあきらめたのではなく、彼女がここに来る前に決心していたこと――それをしなければ、この現実は絶対に変えられないという意味でのあきらめだった。
それに、たとえもう何を言っても彼は悪い方向にしか考えてくれないような気がした哀しさや、これ以上、自分をどこまでも傷つけるような彼のこんな姿を見ていたくないという気持ちが、彼女に完全に覚悟を決めさせていた。
彼女が決心していたこと――
『私は相沢さんの側にいることにします』
それは、彼の側で彼を支え続けると言うことであった。
『…何を言って…いるんだ? 天野。どう受け取っていいかわからない言葉だぞ。だが、何にせよ……気持ちはうれしいがやめておいたほうがいい。こんな俺の側にいても辛いだけだろう?』
『今の相沢さんを見捨てるのは人として不出来というものでしょう』
『相変わらず年齢にあわない物言いだな。おば――』
『物腰が上品だと言って下さい』
『――うぐぅ』
『うぐぅ? 何ですか? それは?』
『はは、俺にもよくわからないんだがな』
『…?』
祐一は、先ほどは年相応な仕草を見せてくれたのに、今度は妙に大人びた言葉を言う少女をふとおかしく思い、つい悪口を言いかけた。
美汐は憮然としながら、その言葉を途中で無理やり止める。
すると、変な言葉を彼が発するので、とりあえずそちらの方が彼女は気になった。
その言葉は、今もまだ病院で眠っているたい焼き好きの少女の口癖。
意味はよくわからないが、困った時などその出る頻度は高かったので祐一は影響を受けていたようだ。
そんな自分をおかしく思い、祐一は笑いながら、よくわからないと言わんばかりの美汐の不思議そうな表情を面白そうに見ていた。
さて、祐一は気づいていたのだろうか?
少しずつ表情が緩み、自分がいつもの調子に戻り始めていることに。
その変化は……
美汐の側にいるという言葉そのものと真摯な思いが、傷ついた祐一の心に少しだけ明かりをともさせていることを意味するのかもしれない。
『よくわかりませんが、とにかく、何が何でも離れるつもりはありませんから』
『ストーカーか……?』
『…酷い物言いですね。失礼ですよ』
祐一の調子が戻ってきてくれたことに美汐は気付いていた。
そのこと自体は嬉しく思うが、彼の言葉の内容は素直に喜べるものではない。
彼女は複雑そうな表情をしながら、不満を言うのだった。
『すまんすまん。受け方によってはそう取れ――いや、冗談はやめておこう。本当に……俺なんかの側にいるというのか?』
『はい。それに――』
『それに? 何だ?』
『――これまで何もできなかったと貴方は思っているとしても……まだ、相沢さんは確実にできることがあります」
『俺に……何ができるって言うんだ?』
何もできなかった。
その思いが今の彼の心の多くを占めている。
だからこそ、自分にできることがあるという言葉は、祐一の心に深く響く言葉だった。
祐一より身長の低い美汐は、そんな彼の顔を下から覗き込むようにしてから、再び年齢相応のかわいらしい笑顔を浮かべながらこう言う。
『相沢さんは、私を救うことはできますよ』
『天野を……救う…?』
祐一はそんな今までとは違う美汐に再び驚かされながら、彼女の言葉を頭の中で反芻させる。
しかし、何か心に来るものは感じながらも、その言葉の意味するところを理解することはできなかった。
『私なんかを助けるのはお嫌でしょうか?』
『い、いや、絶対にそんなことはない。真琴のことで世話になったお前のためになるなら喜んで力になりたい。しかし、どうやって俺がお前を救えるって言うんだ?』
半ば呆然としている彼を見て、美汐は少し首をかしげながら穏やかな眼差しで尋ねる。
祐一はその言葉をあわてて否定する。
彼は、真琴の友達になってくれた彼女に本当に感謝していた。
だから、意味はよくわからないが、喜んで彼女の力になりたいと彼は思っている。
『私が相沢さんの側にいるように、相沢さんも私の側にいてください。それだけでいいのですよ』
『天野の側に…?』
『はい』
美汐のあくまで優しげな言葉を聞いた祐一は、どこか心を癒されていくような気はしつつ、まだよく意味はわからないといった風に疑問を表情に浮かべる。
彼女はそんな彼に頷き、こういう意味ですよと、あたたかい表情でこう説明しようとする。
この言葉の意味、それは――
『私が相沢さんの側に、相沢さんが私の側にいてくれるなら……私も…相沢さんも……一人ではありません。私はそれだけで………先ほど話した悲しみを癒していけるかもしれません』
自分が過去に受けたあの悲しみは、祐一が側にいることで癒すことができると言う意味の言葉だった。
『天野…………うく』
自分にはまだできることがある。
彼女の微笑みと、今の声は確かに彼にそう思わせてくれるものだった。
あゆ、名雪、真琴、栞、香里、舞、佐祐理――誰も救うことが出来なかったと後悔している彼には……
その言葉はありがたすぎるものだった。
『ぅ……は、はは、男が女の子の前で泣いたら……格好……悪いよな…』
『…そうかもしれません。ですが、泣くときは泣くものですよ』
『…ほんと…女子高生らしからぬ言葉づ――』
『それ以上失礼なことを言うのでしたら、お望みどおり、ストーカーになりますよ』
『…お…いおい…』
『ふふ、冗談です』
祐一は泣き笑いのような表情を浮かべる。
自分の言葉どおりに思ってはいるものの、美汐の言葉はやはり彼にはありがたすぎるもの。
涙が自然と溢れてきて、それを止めることは容易ではないようだ。
少し、そんな男としてピンチな状況を打開しようと、また無理に悪態をつこうとする。
しかし、その言葉は美汐の真顔の言葉に止められる。
祐一は、彼女のその言葉に対する苦笑いがさらに浮かんできて、どうにも表情が崩れるのは止められそうもなく、かなり困っていた。
尤も、美汐としてはやはり冗談だったらしく、本当に可笑しそうに微笑む。
『ですが本当に今は泣いていいのですよ? いつか私が泣いたとき慰めてくだされば、そのときにおあいこになりますから』
『……すまない……く……涙は…枯れたと…思ったんだが…な……ぅ……っ!』
祐一は美汐の言葉に感謝し、我慢するのはやはり無理だと判断し、あきらめた。
彼は声を殺して嗚咽し始める。
美汐はそんな祐一をそっと抱きしめる。
その姿は自我を失いつつある真琴を落ち着かせるために抱きしめてあげた時のようであった。
だが、同い年か年下くらいの容姿の少女である真琴ならばともかく、年上の男性を優しく抱きしめ、心を癒すと言うことはそう簡単にできるものではないだろう。
美汐にはそんな経験ももちろんない。
だけど、彼女は自然とこうすることができていた。
なぜかは彼女自身にもよくはわからない。
でも、今はこうすることができてよかったと彼女は思っている。
『相沢さんは頑張りすぎですよ。辛いなら、少しくらい誰かに弱音をはいてもいいではないですか』
(あ…まの……)
『それに何もできなかったと思っておいでのようですが、そんなことはないと思います。意識を失っていく真琴の側にちゃんといてあげたではないですか』
『………』
『しかも……私にほんの少しだけあの子を預けた時、あの子が眠っている時、残ったその全ての時間。その時間を他の方々のために使って、あなたは本当に頑張っていたのではないですか。睡眠もろくにとらずに頑張っていたのでしょう?』
『で……も……お……れは――』
『たとえ、結果はよいものをもたらすことはできなかったとしても……少なくとも真琴は貴方との時間、幸せを感じたこともあると思います。他の方々も、あなたのおかげできっと何かは変わったと思います。ですから……もう苦しまないでください』
(…ありがとう……天野)
今まで張り詰めていたものが、徐々に美汐の言葉とぬくもりによってときほぐれていくかのように、祐一は涙を流していく。
声を殺してそうやって泣いている彼は、言葉を紡ぎだすことはできなかったが、本当に心から彼女に感謝していた。
そして、祐一は泣き続ける。
美汐はそんな彼を、あたたかく、だが、しっかりと支える。
そんな時間がしばらく、冷たい風が吹くこの静かな丘と溶け込むように続いていくのだった。
『恥ずかしい所……見せてしまった』
『くすくす』
『あ、ちくしょう。笑いやがったな』
『ふふ、すいません。ですが、やっと本当に相沢さんらしくなってきてくれましたね』
『お人よしの誰かさんのおかげだな』
『もう、すぐそういうことを言うのですから…』
『まあ、それが俺だからな。でも……本当にありがとう。天野』
『どういたしまして…と言うべきなのでしょうか?』
『はは、だろうなあ』
『くす』
一頻り泣いたことで、憑き物が落ちたかのように、祐一は明るいとはっきりとまでは言えないが、この丘に来たばかりの時とは明らかに異なる表情を浮かべていた。
そして、いつもどおりの調子を戻しつつある。
美汐はそんな彼を嬉しく思いつつ、彼の恥ずかしさを無理やり紛らわしているような態度を可笑しく思ったのか、少し笑ってしまった。
祐一は笑われたことに不貞腐れつつ、彼らしいやり取りを行っていく。
美汐は、祐一のその独特な調子をまた可笑しく思いつつ、笑みをこぼしながら、ふと丘の草原に目をやる。
(なんとかなりましたね……よかった……)
冷たい風ではあるが、冬であってもその風にのって草花が波のように流れる草原を見ることができるこの不思議な丘の美しさに、彼女は目を映えさせながら、何とかいい方向にもっていけたことに安堵していた。
(……考えてみれば、今までの私をあの子はどんな思いで見ていたのでしょう……お姉さん…失格ですね……)
そして、この丘を同じように眺めていた昔、自分が会ったあの狐との思い出を彼女は思い返していた。
別れは本当に辛かった。
でも、一緒に過ごしたあの時間は本当に楽しかった。
そのことを悲しみのあまり忘れ、自分の心を閉ざしてきた日々。
あの子が、そんな日々を過ごす自分をもし見ていたとしたら、どんな思いをするだろう。
自分を奮い起こして、元の自分を取り戻すかのように頑張ってみたことであのころの自分を思い出し、また、祐一の姿を鏡に映った自分の姿のように考え、彼に言った言葉を自分に改めて返したとき、あの子は悲しい瞳で自分を見ていたのではないかと彼女は思った。
だから、すまなそうに思いながら少し悲しげに彼女は目を閉じる。
すると――
――それでも……私は姉さんが大好きですよ――
『え!?』
『ど、どうした? 天野。いきなり声を上げて』
『あ……その、何でもありません』
『…?』
(今のは……空耳? いえ、そうじゃないかもしれませんね…)
――ふと声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声に美汐は驚き、つい声をあげる。
そして、祐一の様子から察して、自分にしか聞こえなかったようなので、少し考えてみる。
でも、空耳とは思いたくない。
自分の心にきっとあの子は語りかけてくれたんだと彼女は思う。
『お姉さんは、がんばりますね』
『は? どうしたんだ? 天野?』
『いえ、こちらのことです。そういえば相沢さん、あの約束をまだ覚えていますか?』
『いきなりだな。だが、もしかして――強くあって下さいね――っていうあれか?』
『覚えていてくださったんですね。それですけど、少し変えたいと思います』
『もう守れなかったようなもんだがな……それで、どう変えるんだ?』
美汐はこれから自分はあの子のためにも頑張っていこうと呟く。
祐一は先ほどからの美汐の様子を不思議に思い、尋ねる。
だが、彼女はそのことよりもこれからのことを先に話したかったようで、別の話を持ち出す。
いきなりの話の内容に祐一はやや釈然としないながらも、内容が内容なだけに少し申し訳なさそうな表情をしつつ、彼女に質問する。
『ふふ、もう一度チャンスを与えますと言う所でしょうか? ただし、こう変えますけどね。一緒に強くあっていただけますか?』
『一緒にか……なんか俺子どもみたいだな』
『そうかもしれません』
『おい!』
『ふふ、冗談ですよ』
『なんか、お前は既にかなり強くなっている気がするぞ…』
『そうでしょうか? でも、頑張らないとあの子に泣かれてしまいますから』
『あの子……? ! なるほどな。俺も真琴に泣かれたり馬鹿にされたりしないようにしないといかんか』
美汐の言葉を聞き、少し冗談っぽく子どもみたいだなと言ったのだが、あっさりと美汐が肯定してくれたので祐一は困った。
対して、微笑んでこちらも冗談ですと笑う彼女を見て、彼は思ったことを口にする。
そして、再び彼女から返ってきた言葉から、先ほど姉さんと言っていたことと彼女の過去が彼の頭の中で結びつき、“あの子”とは彼女が出会った狐を指していることが彼にはわかった。
だから、祐一は美汐の気持ちを察し、自分も負けていられないなと考えていた。
『では、手始めに最後まであきらめない所から始めましょうか? 相沢さん』
『ああ、やってみる』
『あの方たちが目覚める可能性は本当に低いかもしれません。ですが、私はどんなことがあっても貴方を支え続けますから』
『……ありがとう。天野』
祐一は美汐の言葉に頷きながら、本当に感謝していた。
そして、ちょっと照れくさかったのか、彼女から視線を外し、ふとこの丘から見える光景を、光を取り戻したその瞳でまっすぐに見つめてみる。
美汐も祐一に合わせるように彼の向いている方を向く。
閉ざしていた自分の内にあるものを解放したことを実感していくかのように、ただ二人は自分の前にある光景を見つめている。
そんな二人の頬に、丘を吹きぬけきた風――冷たいが――どこか清々しいその風が当たる。
『いい風ですね』
『寒いだけだぞ』
『相沢さんは風流がなさ過ぎます』
『そういう天野は、女子高生らしくないぞ』
『ほっといてください』
『こちらこそ、放っておいてくれ』
『『ぷ……あはは』』
お互い支えていく自分たちなのに、そろってこんなことを言う。
そんな自分たちが可笑しくなって、二人は本当に可笑しそうに笑い合う。
『『………』』
一頻り笑ってから、二人は今度は静かに丘のほうを向く。
(真琴……もう一度やり直せるとしたら、俺は……最初からお前にもう少し優しく――できんかもしれん。あはは、すまんすまん。だけど、もしもう一度お前に会ったとしたら、お前に泣かれたり、馬鹿にされたりしないように、俺は頑張ってみるぞ)
(夕菜……もし、また貴方と会えるとしたら、その時に泣かれないように、お姉さんはもう一度がんばってみます。だから、心配しないでくださいね)
――自分に負けたら、許さないわよぅ――
――はい。姉さん――
『聞こえましたか? 相沢さん』
『どうやらお互い、幻聴が聞こえるほど老いたらしいな。ショックだ』
『本当に素直じゃないですね…』
『気にするな』
『はいはい、そういう方でしたね』
『なんかそう簡単に納得されるのも嫌だ』
『わがままですね…』
『おう』
『全く……(くす)』
『あはは』
二人は、大切なあの子たちに自分の決意を伝えていた。
すると、二人には声が聞こえてきた。
美汐は本当に嬉しそうに、祐一に尋ねてみる。
でも、彼は素直ではなかった。
やっぱり変な人だと彼女は再確認してあきれつつ、最後には微笑みを浮かべる。
こんな形だが、もう一度やっていけそうな気がしたからだ。
祐一も最後には、笑う。
本当は真琴の声が聞こえてきて、とても嬉しかった。
さらに、これから進む未来へのほんのかすかな希望を、美汐とのやり取りに見出せた。
だから祐一は、たとえこの先はどうなるかわからないとしても、この一時、確かに明るさを取り戻すことができたのだ。
そして――
――祐一君、美汐ちゃん……二人とも、本当に強いや――
病院の一室で眠り続けているはずの少女――月宮あゆ。
祐一に関わる全ての人たちの幸せを願い、その願いは叶わぬままに、再び眠りについてしまった彼女。
そんな彼女だったが、夢の中で、この二人の様子をずっと見つめていた。
――ごめんね、祐一君。ボク、祐一君の声は聞こえていたけど、体、動いてくれなかったよ…――
本当に悔しそうに、彼女は夢の中でつぶやく。
――でも、二人とも頑張っている。だから、ボクも負けていられないよっ――
だけど、自分の涙を振り払うかのように、彼女は意気込む。
――あはは、しかもボクは欲張りだから、負けないように二人をびっくりさせるよっ――
――ボクはやっぱり、皆笑顔が一番だと思うから――
――だから、ボクの願い事はやっばりあの一つ――
――もう一度ボクはあの願いを願う――
――どんなかすかな希望でもいい――
――ボクの願いが叶ってくれることを願うよっ――
――だけど、ちょっとだけ祐一君、美汐ちゃん、二人の力をかりるね――
――ボクだけでは弱いかもしれないけど、みんなで頑張れば、きっと何かは起きるよっ!――
――だから!――
――ボクの…願いは…っ!――
「……あゆ」
美汐に心を救われたあの時、そして自分は知らなかったが、あゆがこんなことを考えた時の様子。
それを見終わった祐一は、先ほどの暗い表情とは打って変わった明るい表情をしていた。
「……ホント、欲張りだなあ、お前は」
祐一はあゆの悪口をまた言い出す。
しかし、その顔は、晴れやかな笑顔だった。
「…だけど、俺はそんなお前が嫌いじゃない……」
自分は、美汐の力をかりて、その先にまた大切な人の死のような絶望が待っていたとしても、精一杯一歩を新たな道を踏み出そうとした。
それだけでも結構な一歩だというのに、まるで――もっと跳ぼうよっ!――とばかりに自分と天野を両脇に抱え、一足飛びにあゆは希望へと自分たちを運んでくれたように思えて、祐一はそれは反則だぞとも思いながら、とても嬉しい気持ちがしていた。
悲しみを知っているにもかかわらず、いつも元気で明るいあゆ。
祐一は、そんな彼女の姿が自分は嫌いじゃなかったなと改めて思って、彼女の思いがもたらしてくれたものを心の中で確かめる。
「それと……やれやれ、また助けられちまったな。天野」
そして、自分を助けてくれた少女にもまた、思いをはせる。
今度は、晴れやかな気持ちは浮かびつつ、どこか困ったように苦笑いを彼は浮かべる。
「二度も助けられたら男じゃないぞ……どうしてくれるんだ、天野?』
自分があまりにも情けないような気がしてきて、本当に彼は困ってしまった。
それなのに、心の中では彼女のやさしさが自分に心地よいあたたかなものを生んでくれているので、本当に彼女に対して敗北感のようなものを彼は感じてしまって、つい、ここにはいない彼女にたいして、愚痴めいたことを彼は言ってしまう。
「はっはっは、こうなったら、特大プレゼントでもって必ず借りを返してやるから……覚悟しておけよ、天野」
そして、無理に強気な態度を作って、笑いながら、彼は負け惜しみのような言葉を口にする。
真琴を助ける方法が見つかれば、美汐のあの子も助けることが出来る。
だからこそ、本気で頑張ってやると彼は自分に言い聞かせているようなものなのだろう。
彼はそうして、自分の中の迷いを振り払って、再び、膨大な数の記録に立ち向かっていく。
そして、この過去のビジョンは、祐一の心をこれからも支えていくことになる。
彼は確かに一人で出口のわからない迷路をさまよっているようなものなのかもしれない。
しかし、彼をちゃんと見守ってくれる影が、この時の間には存在していたのである。
その影こそが、この祐一の心を救うプレゼントの贈り手だった。