「えっ、本当に!?」
我ながら素っ頓狂な声だったと思う。
受話器の向こうから、笑いをかみ殺したような声が疑問を肯定した。
きっと、お腹を撫でながら、幸せそうな笑顔を浮かべているに違いない。
その姿を想像すると、陳腐な言い方だが、幸せだった。
受話器を置くと共に、大声を聞いていた同僚達がわらわらと寄ってくる。
いつもなら暇な奴等だと悪態の一つも吐くが、今日はそんな気分にはならない。
その中の一人が、代表して口を開く。
「どうした?」
気の利いた答えをいくつか思いついたが、口が上手く動かなかった。
得体の知れない感情で強張った口で。
ぽつり、と。
「父親になったそうだ。俺が」
親
「相沢」
「おう、北川。この間のへまは解決したのか?」
「菓子折持ってひたすら平伏。お年寄りは文句を言うが趣味だから大丈夫だろ。いや、そんなことよりだ」
北川がにやりと笑った。
俺に感化されたな、と思いながらも聞いてやることにした。
「ついに呪縛に囚われたか。おめでとう」
「ありがとう。もっと素直に言えれば及第点をくれてやってもいい」
「いらないし、お前に言われたくもない。で、何ヶ月だって?」
受話器の向こうの声を思い出しながら言った。
「3ヶ月じゃなかったかな」
それを聞いた北川が、珍しく考え込むような仕草をした。
珍しい現象に祐一がいささか驚いていると、ふと北川が顔を上げた。
「その珍獣を見るような目つきをやめろ」
「馬鹿な。珍品の間違いだろう?」
北川が少し沈黙した。
「安定期って四、五ヶ月だっただろう。大変だな」
今日は優しいので、話に乗ることにした。
「そうだな。まあ大変なのは俺じゃないから何とも言えんが」
「いやいや、経理の木嶋先輩いるだろ?」
「あー、最近係長になったあの先輩?」
「そうそう。愛娘に駆け落ちされた上司が精神科に入院したことによる人事異動で昇進したあの先輩」
「嫌な事実を聞いたな。それで、それが何だ?」
「俺等が入社した直後くらいかな。奥さんがやっぱり妊娠したらしくて」
「ふむ」
「やっぱり三ヶ月くらいの時に階段でこけて腹打ってな。もう親戚中が大騒ぎになったらしい」
想像した。
まずい。
とても嫌な予感がする。
あいつなら、階段どころか平地でもこけそうだ。
幸せな気分のまま木に激突しても……極めて平常通りだ。
運動神経はともかく、肝心なところで神経回路が一本足りない。
どうしよう。
今日はもう退社させて貰うべきだろうか。
いやいや、毎日そうするわけにもいかない。
信じろ。
あいつだって細心の注意を払うはずだ。
信用できる。
「……だめだ。信用できても信頼できん」
「その二つにどれほどの違いが?」
「幼稚園児は黙ってろ」
「・・・・・・」
いや、命には細心の注意を払う性格だ。
自分のことに関しては注意が散漫になりがちだが。
大丈夫。
俺がこんなに心配するんだ。
あいつだったら、この何倍も心配するはずだ。
少なくとも、自らの失敗で危険には晒すまい。
「よし」
「いくぞう」
「? なんのことだ?」
「いや、いい。無視されてて寂しかっただけだ。聞き流せ」
「ああ、なんかお前の表情を見たら同情したくなった。そうしてやる」
考え事が終わると、用件を思いだした。
総務に書類を届けて、課長の所に行かねばならない。
「ところで北川。お前はまだ子供作る気無いのか?」
「うるせーよ。子供以前に彼女を作らないといけないんだ」
なんだか心の底から同情したくなった。
「頑張れよ」
「そういう科白は笑いを堪えながら言う事じゃない。喧嘩売ってんのか?」
「まさか。稼がなきゃいけない体ですから大事ですよ」
「お前からそんな言葉を聞く日が来るとは」
「驚くなよ。お前だっていつかはこうなるだろうさ」
北川が苦笑いした。
俺はどういう表情してるんだろう。
苦笑いを浮かべているつもりだが、自信がない。
心の底に、これ以上ない歓喜があるからだ。
「じゃな」
「ああ、しばらくは飲み会も出ないんだろ?」
「まぁな。一、二年は健全な生活を送るよ」
「うわ。ほんとに呪縛か」
「だな。でも、そんなに嫌じゃない」
とりあえず、今日は早く帰ろう。
総務は相も変わらず芸術思考が高い。
誰が見るんだろうかこんなもの。
いや、ある意味注目されるか。
用途が理解できない形に折れ曲がった壺を見ながら、そう思った。
鍵盤を叩く音が鳴り響くのは社内共通だが、熱帯魚を部署で飼うのはここだけだ。
「相沢君」
「はい?」
呼ばれて返事をしたものの、相手がどこにいるのかわからなかった。
聞き覚えのない声なんだが。
「視線を下げて」
言われた通りに下げた。
手乗り狐猿、違う、小柄な男が立っていた。
小柄というのさえ世辞混じりで、小さいと言った方がしっくりくるかも知れない。
「いやぁ、ある程度大きな人だと私が視界に入らなくなるらしいんだ」
なるほど、百八十を越えたら気付かず蹴り飛ばしそうだ。
それはともかく、名前が思い出せない。
せっかくの名札も位置が低すぎて見にくいこと甚だしい。
「それはそうと、おめでとう」
「ありがとうございます」
愛想笑いを返すが、やっぱり誰か思い出せない。
「それとこれ。書類。高橋君に渡しておいてくれ」
「はい。承りました」
はて、高橋ってうちの課長の名だったはずだ。
気軽に呼ぶってことは課長より上の役職だよな。
もう一度よく見た。
「どうした? 顔色が悪いぞ?」
汗がぶわっと出た。
うちの会社の規模は、確かにそんなに大きくない。
何個か支社を抱えているが、一流と言うのは少々憚られる。
とはいえ四桁以上の社員を抱えている会社だ。
そんな会社の取締役専務が何故ここにいる?
総務が緊迫しているのに、何故気付かなかった。
そんなことより何故この人は俺の名前を知っているのだ。
なによりも妊娠の話はそんな上層部まで広まっているのか。
「あ、あの専務? 失礼ながら何故ここにいらっしゃるのでしょうか?」
「社内回りは私の日課だ」
なんて迷惑な日課だ。
「それで今日は総務に?」
「いや、君の姿を見つけたから入ってきただけだよ」
なんだ? 何でこの人はこんなに俺に親しそうに接して来るんだ?
行き倒れの人を助けたらこの人だった、なんて話は断じてない。
知り合いの親だったりするのか?
いや、大鳥なんて知り合いはいない。
「ちょっと歩こうか」
「え? ええ、あ、え? はい」
混乱している間に、苦役が始まった。
最初は何だっただろうか。
ああ、そうだ。赤ん坊を生んだ後の女性は強気になるとかそういうことだったな。
それがいつの間にか俺に対する説法に変質して、何の化学反応を起こしたのか、今は少子化問題か。
何でうちの課と総務はこんなに離れているんだ。
長い。長すぎる。
こんな気持ちは、高校の卒業式で校長の長話を延々と聞かされて以来だ。
「聞いているかっ?」
「はい、もちろん」
「ではどう思う?」
こんな気持ちも、居眠りをしていた授業で教師の質問に起こされて以来だ。
切り抜け方を学習したという一点を除けば、昔と何も変わりない。
「専務が仰るとおりだと思います」
「そうかね」
話が再開された。
いつの間に株主総会の話になっていたのだろうか。
冷静になると、回りの視線が少し痛く感じられてきた。
そりゃ、一介の平社員と専務の組み合わせは変だろうよ。
本人、喋ってる方は除くが、本人でさえそう思ってるのだから。
ああ、うちの課の扉が天国への門に見える。
残り二、三十歩だ。
少し気が楽になり、専務の話に耳を傾けてみた。
「誰かを養うというのは想像以上に辛いことだ。なにせ、自分の方に何人分もの責任がかかってくるのだから」
そうか。そういえばそうだな。
一人分だった責任が、結婚して二人分になり、子供が産まれて三人分になる。
それはお互い様の責任に違いないが、一緒に背負えば軽くなると言う類のものでもなかった。
重いものは、何人で背負おうともひたすらに重い。
「それに昨今では金を毛嫌いする潔癖主義が目立っているが、それとて養育の責任の前には戯れ言に過ぎない」
「失礼ながら、金というものを否定するわけではありませんが、金に固執する親を見た子供は健全に育つのでしょうか?」
専務は意外なものを見たような目つきで見てきた。
失敗したかな、という後悔が心に過ぎったが、言ってしまったことは仕方がない。
「やっと話に乗ってきたな。今までのは聞き流していたのだろう?」
「いえ、確たる持論も持っていなかったので発言を控えたまでです」
おお、こうもよどみなく嘘が吐けると、自分を疑いたくなる。
専務がにやりと笑った。
「上手く切り抜けたな。まあいい。そこにかけたまえ」
さようなら天国の扉。こんにちは地獄の入口。
休憩場の椅子が、拷問器具に見えた。
ああ、これで俺は左遷か。
いや、専務は人事権は握ってないはずだ。
あ、でも取締役の一人だから横槍を入れるのは簡単かも。
あとは野となれ山となれ、という素晴らしい格言を思いだした。
本当に野とか山とかに行かされたりして。
珈琲を手渡されたが、きっとこれは餞別の品に違いない。
死出への手向けにしてはしみったれてる。
「さて、話はお金の貴賤だったか」
少々違う気がしたが、話を最後まで聞いてみることにした。
「戯れ言とは言い過ぎた。金の亡者が善か悪かと問われれば、まあ、悪だな」
すぐに手の平を返す人って嫌いです。
「金に執着、まあ、これは固執と言い換えても差し支えないが、とにかく執着する善人というのは見かけないな」
俺も寡聞にして知りませんな。
「しかし、金は必要だな。就職したのだからこれはわかると思う」
なるほど。確かに金を稼ぐために就職したことは間違いない。
「それで、どうだ? 稼ぐというのは大変なことだろう?」
「はい。それはもう」
朝から晩まで働いて、腹が立つことも自制して、どんなに疲れていても次の朝には出社しなくちゃならない。
学校と違って、働かなければ簡単に首を切られるのだから。
専務はこちらの表情から何かを察したのか、含み笑いをした。
「つまり金というのは相当な努力によって生み出される物なんだ。それは本当に卑しい物か?」
「……いいえ」
少し話術にはまってる気がした。
が、理屈として否定できるほど、俺の頭の回転は速くない。
「そして今ひとつ。なぜ努力する?」
「え? それは能力を向上させたいからです。生活がかかってますから」
では、と専務はわざとらしく一拍おいた。
「それは生きることへの、或いは幸せを掴むための執着とは言えないか?」
「それは」
言えない、とは続けられなかった。
感情はまだ否定する。
貨幣経済に巻き込まれていない地域も世界のどこかにはあるだろうし、幸せは貧乏の中でも掴めるだろう。
しかし、理性はこう言う。
ここは日本だし、現実的に日本で生活する場合、お金が無くては選択肢の幅が圧倒的に少なくなる。
そういう現代的な機構の良し悪しは別にして、そう言った環境に身を置くしかないのだ。
第一、自分が貧乏でも幸せであっても、家族を巻き込むのはいかがなものか。
不幸にして、自分は理性の人間だった。
「前の話に戻るが、家族を持つ物はその肩にいくつもの責任がかかっているんだ。嫌いだ、では済まされない」
「……はい。専務の仰るとおりです」
「さっきも聞いたな。その科白」
笑いながら立ち上がった専務が肩を叩いてくる。
小さい割には、力強く、大きな手だった。
それが、親の手というのかもしれない。
「総務からの回答と、課長宛に専務から書類です」
「後に言ったほうだけ、横にあるごみ箱に捨てなさい」
常では課長の言うことは絶対服従なので、脊髄反射で捨てようとした。
「って、ちょっと待って下さい。専務からの書類ですよ? 捨てて良いんですか?」
「書類にかこつけた見合い写真よ。私は離婚してないし再婚する気もないっ!」
同時にばきんっ、と何かが壊れる音がした。
恐っ。
「あの、つかぬ事を聞きますが、何故専務が課長に見合い写真など渡すのですか?」
「あれが私の父親だからよ」
へえ、父親。
成る程、言動などが似てなくはない。
いや、ちょっと待て、名字が違うだろうが。
いやいや、離婚と言ってたな。結婚しなければ離婚できないわけで、つまりは結婚して名字が変わったのか。
いやいやいや、結婚している人に見合い写真なんか渡して何の意味がある。
わけわからん。
「課長。不躾な質問ですが若いと思って許して下さい。なんで結婚している人に見合い写真を?」
眉間を撃ち抜かれた。
課長が何か武器を持っていたら俺は死んでた。間違いなく。
課長は相当な美貌を持つが、課内の人間が誰も手を出そうとしない。
四半期でも部下として働けば、誰でもすぐに理解する。
不幸にして課長の本性を見抜けず憧れる者は、悲惨な目に会う。
何故なら課長は、とっても、とっても、とーっても恐いのだ。
噂によると、人事部はこの課に心臓の悪い者を入れないよう苦慮しているとか。
どうやら俺は健康に問題がないらしいが、素直に喜べないのは何故だろう。
睨まれたときの気分は、控えめに言って、核シェルターの隅で震えていたくなる。
「聞きたいの?」
「いえ、改心しました。全く聞きたくありません」
「聞かせてあげるわよ?」
「ええ、一時的に悪魔の呼びかけに応、え?」
「広めて欲しくはないけど、あなたは口が堅そうだから良いわよ」
「はあ、いえ、お話になりたくなければ本当に。ええ、ものの弾みで聞いたに過ぎませんので」
そんな重そうな話を聞かされても、対応に困る。
「そう言えば課長。何故専務が私の名をご存知なのですか?」
わざとらしく話題転換を図ってみたりする。
「私が教えたからよ」
「なぜそんな」
迷惑なことを、と言いかけてやめた。
「珍しいことを?」
「どこかの課の馬鹿が社用車に轢かれたらしいがお前知らんか、って聞かれたからよ」
「……誰でしょうね?」
「そうね」
これ以上ここにいると精神に重大な損傷を受けかねないので、早々に退室したくなった。
失礼します、と口を開きかける。
「そういえば、おめでとう」
機先を制された。
「ありがとうございます」
「子供というのはいいものよ」
課長は完全に休息をしようとしている。
どうも、今日の俺の運勢は最悪らしい。
人間、諦めが肝心だよな。
「女性にとってですか? 男性にとってですか?」
無難な質問だろう。
「両方にとって、と言いたいところだけど、どちらかというと女性に与える影響の方が強いかしら」
「そうでしょうね」
想像するしかないが、自分の中に別の生命が宿るというのは劇的なことだろう。
ふと、課長の目がじっと見つめてきた。
何となく焦る。
「なんでしょう?」
「いえ、さっきの話をしないとこの話が続かないのだけれども聞く?」
ちょっと迷った。
何となく想像はつくが、その何となくの想像はあまり楽しい会話になるとは思えない内容ばかりだ。
ただ、ここで引くと嫌な気がする。
むこうが話しても良いと言ってるのだし、まあ、いいか。
「差し支えない範囲でお願いします」
「本当なら全て差し支えるのだけれど、色々な考え方があるっていうのは知らせておいた方がいいと思ってね」
「ああ、今日はそういうことが多いですね」
「あら、良かったわね」
「自分の考えを否定されるのはあまり気持ちのいいことではないのですが」
「今までの考えが若かったの。他の考えと触れることで考えなんて物は変化していくものよ」
黙って肩をすくめた。
気取った行動に課長が笑う。
非道だ。
「結論から言うとね。私は、いわゆるシングルマザーってやつね」
成る程、まあ、想像の範疇ではあった。
「驚かないわね。まあ、今までの話からも想像つくでしょうけど」
注意深く頷いた。
それで間が持った。
「シングルマザーは最初から結婚してないのだろうけど、私も一ヶ月で独り身同然になったんだから使い方は間違ってないはずよ」
下世話な疑問が湧くが、我慢して促す。
「で、今も別居。五年なんて有に越えてるから書類を提出すれば離婚が成立するんでしょうけど、ここまできたら意地ね」
あいつを自由にしてたまるものですか、と課長が少し笑った。
つられて苦笑いを返した。
「お子さんは何歳なんですか?」
「十二歳、今年で十三歳になるわ」
「中学生ですね。男の子ですか?」
「残念ながら女の子。男の子なら早めに独り立ちしてくれそうだけど、うちの娘はどうかしらね」
「課長の娘さんなら自立は早いと思いますよ」
「知ってる人はみんなそう言うんだけどね。実は私は結婚するまで両親と同居していたのよ」
かなり意外だった。
「まあ、それは先のことだから良いのだけれど」
少し、話がずれたらしい。
「あいつ、夫とか主人とか言うのは腹が立つからこう言うけど、はっきり言ってあいつが憎いわ」
「同情はしませんよ」
「あんたのそう言うところ好きよ。で、あいつは憎いけど、あいつの血が流れてるとしても娘を嫌いになりはしないの」
少し、考えた。
どうしても聞きたいことがあったが、下手な言葉では誤解を招きかねない。
ゆっくりと、慎重に言葉を紡ぐ。
「それは男の子で、相手に似ているとしても変わらないんですね」
「そうね。現実として私似の女の子しかいないけど、自信を持って断言できるわ」
当然、という感じで答えが返ってきた。
そういえば、離婚した夫婦で親権の奪い合いは良く聞くが、押し付け合いというのはあまり聞かない。
離婚する前も、した後も子供には変わらぬ愛情を注ぐそうだ。
そもそも子供を愛するとはどう言うことだろう。
子供を通して妻や、夫の半身を愛すると言うことだろうか。
それとも、子供は子供として愛するのだろうか。
今、俺は間違いなく子供を通してあいつを愛している。
はっきり言って、生まれてもいない子供を愛しているとは思えない。
しかし、子供を愛したいと思う。
子供を愛せるなら、どんなに幸せだろうかと思う。
子供とはそういうものなのだろう。
愛する者の半身として生まれ、やがて自身が愛される。
そして、その子もまた子を産み、同じ気持ちを子に抱くに違いない。
「でも最近はあまりあいつが憎くはないの。娘の半身ですもの。認めなくては娘を認めていないと言うことになるわ」
世の中、夫婦、これは違うな。
子供、と言うのも微妙にずれている。
親、と言うべきだろうか。
その立場は、本当に面白いものだ。
いつも思う。
真冬といえども満員電車に暖房を入れるべきじゃない。
何のための厚着だと思っているんだろう。
しかも自分より背の高い奴に囲まれて、暑苦しいわ息苦しいわで死にそうだ。
気の抜けた音と共に、回りのお客達が動き出す。
俺もその一人で、流れに身を任せた。
外に出た瞬間、ぶるりと震えがきた。
寒い。
雪こそ降っていないものの、とてつもなく寒い。
家まで歩くのが嫌になるほどだ。
とはいうものの、車では近すぎるし、今更自転車に乗るのも嫌だ。
多くの駅でもそうだろうが、改札を出るとすぐに本屋があった。
入ろうか迷う。
胎教の本なんか買っていったら、親馬鹿と笑われそうな気がする。
立ち読みで済まそうかとも思ったが、会社で早く帰ろうと決心したことを思いだした。
寒い。
本当に寒い。
前に住んでた所よりは暖かいかもしれないが、俺は寒いのは嫌いだ。
暑いのも嫌いだ。
つまり四季のうち半数は嫌いということになる。
やめよう。不毛だ。
寒いと頭が冴えるせいか、どうでもいいようなことを考え込む。
本に囲まれると便所に行きたくなるのと同じだ。
違うか。
おかしい。不毛なことばかり考える。
もう少し、崇高なことに思索を巡らそう。
例えば人類のこれからについてとか。
二秒で挫折した。
俺は小市民であって、家族の幸せを考える程度で手一杯だ。
こういう上等な考えは政治家にでも任せよう。
その為に源泉徴収という、会社員の悲哀を甘んじて受けてるんだ。
家族の幸せね。
我ながら随分重い物を背負ったもんだ。
小学生の時、こんな事を考えもしなかった。
俺の場合、中学生の時でも怪しい。
高校であいつに出会ったときくらいからか。
そういやあれから随分経ったな。
北川、は元気だけど他の奴等はどうだろうか。
結婚したのは俺等くらいだが、そろそろ他の奴らも結婚しはじめる年齢だろ。
まだおじさんおばさんと呼ばれるのは早いかもしれないが、お父さんお母さんと呼ばれるには十分な年齢だ。
忘れてたが、親父達に妊娠の報告してないな。
あいつがしたかな。
まあ、帰ったら聞いて、それからにしよう。
ふふふ、親父は素直に喜びそうだが、母さんが叫びそうだな。
なにせおばあさんと呼ばれるんだから。
楽しみだ。
親父を思いだした時、ふと、専務に言われたことを思いだした。
家族を養うことの難しさ。
親父もそれを感じていたのだろうか。
自分の夢や信念よりも家族のことを考えるなんて、凄く厳しいことだと思う。
でも親父はそれを成し遂げた。
だから、俺は今ここにいる。
そして、俺は今からそれをしなくてはならない。
出来なければ、いや、そんなことがあってはならない。
父としての義務を絶対に果たさなければならないんだ。
もう一つ、親としての義務を課長に教わった。
子供を愛することに全力を傾ける課長。
両親はそれも果たした。
物心ついた頃、俺は確かに愛されていた。
俺自身が愛されていた。
人格も体も、全てを親父達は愛してくれていた。
無意識にそれを感じ取っていたから俺は幸せだったし、安心できた。
俺は、それを子供に与えたいし、与えなくてはならない。
辛い。
でも、それ以上に嬉しい。
うわあ、柄にもなく考え込んでいた。
いつの間にか家についてた。
鍵を開けると、小走りする音がした。
げっ、走ると危ないのに!
慌てて扉を開ける。
暖かい光りが目を細めさせた。
義務なんて崇高な言葉を使うまでもない。
父になる。
親になる。
それを精一杯、頑張ればいいのだ。
今、靴を脱ぎ捨てて奥に走っていく俺みたいに。
ただいま、と言う声は、我ながら滑稽なほどに慌てていた。
後記
警告!!
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