南出身の人間では信じられないほどに低い気温。

 毎日のように雪が降り注ぎ、暖房器具が己の身を削りながら職務を果たそうとする時期。

 その日も雪が降り、外は暗いというのに、ある部屋だけは明るかった。



「……よし、完璧だ」



 相沢祐一は、ボウルに入った物体を舐めて満足そうに頷いた。

 時刻は二十三時を少し過ぎたくらいである。

 彼、相沢祐一は平凡な高校生である同時に、居候という肩書きを持っている稀有な人間である。

 居候している家は水瀬家といい、この水瀬家、夜の活動時間帯は限りなく低い。

 一人娘で、睡眠時間のベストが十二時間という水瀬名雪の影響なのかどうかはしらないが、とにかく寝るのが早い。

 そのため、秘密のことをするには夜中の方が都合がいいのだ。

 祐一はもう一つ別のボウルを取り出して、そこに白い液体を流し込み、グルグルと掻き混ぜ始めた。

 その液体に手ごたえを感じるようになると、祐一はまた別のことを始める。

 次々と手を変え品を変え、台所を小走りで動き回った。



「あら? 祐一さん?」



 突然声に驚きながら、祐一がその方向へ首を向けてみると水瀬秋子が立っていた。

 実年齢以上に若く見える女性で、とても包容力がある。祐一が居候している水瀬家の家主だ。

 ある人物ではなかったので、祐一は胸を撫で下ろした。ある人物だった場合、今、自分がしていることは意味がなくなってしまう。



「どうしたんですか? こんな遅くに」



 頬に手をあて、秋子はゆっくりと祐一の方へ近づいていった。



「いえ、ちょっと料理をしていただけですよ」

「料理?」

「ええ、ほら」



 祐一が料理をしているといって、不思議そうな顔をした秋子に祐一は自分が作っている途中のものを見せた。

 それを見た秋子は合点がいったのだろう。秋子は優しそうに微笑んだ。



「なるほど。そういうことですか」

「そういうことです」

「でも、一人で作るには大変じゃありませんか?」

「秋子さん、これは俺一人でやりたいんですよ。わかってくれますよね」

「ええ、それは当然ですよ」



 じゃあ、と秋子は付け加えた。



「お店のものはいりませんね。祐一さんがやってくれているんですし」

「そ、それは困ります!」



 秋子の言葉に、祐一は慌てて手を振った。



「あら、どうしてですか?」

「い、いえ、あの……それはですね」



 言いにくそうに口を動かす。

 ここで明言していいものかどうか、祐一はそれで迷っていた。

 出来ることなら、ずっと秘密にしておきたいのだ。

 その祐一を見て、ひらめいたのであろう。秋子は声を出して笑い、首を縦に二回動かした。



「了承」

「は?」

「祐一さんのしたいことはわかりましたよ、一人分。なんですね」

「えっ!」



 なんでわかったんですか。その言葉はどうにか飲み込んだ。

 大声をたてれば、一番知られたくない人物に知られる恐れがあった。



「あらあら。でしたら、わたしが見てあげましょうか? 少しぐらいなら助言できますよ」

「いえ、遠慮しておきます」



 秋子の提案に、祐一は首を左右に振った。



「確かに秋子さんが見てくれるならいいものが出来ると思いますけど、今回ばかりは俺一人でやりたいんです。明日は記念すべき日なんですから」



 そう言った祐一の瞳からは強い意志が垣間見られた。

 それはそうだろうと秋子は思い、同時に心の中でより笑った。

 祐一がどれだけあの子を大事に思っているのかが容易に感じられる。そんな瞳なのだ。

 だから、秋子は一言だけ言った。それ以外には必要がなかった。



「了承」

「ありがとうございます」



 頭を下げる祐一を見ながら、秋子は自分の寝室へと消えていった。

 秋子を見送って、祐一はくしゃみを一つした。

 気温不明。室温不明。そんな体の芯まで冷え、夜中までも雪の振る日。一月六日のことだった。











いちねんという月日と始まりの日と











 翌日。

 水瀬家居候の一人、月宮あゆは六時に目を覚ました。

 彼女は夜早く寝て、朝早く起きる。そんな生活習慣だ。

 まず蒲団から腕をだし、時計を確認。五分間の短いまどろみの時間を手に入れる。

 そして、その後蒲団から体を出す。



「……寒いよ」



 暖かい蒲団の中から、暖房器具をつけていない部屋の冷やされた空気の中へ移動して一言呟く。

 北国育ちであるから、寒いのには慣れているのだが、このレベルの寒さとなれば慣れはあまり関係が無い。

 南国育ちであるからといって、猛暑に慣れているとはいえないのと同じ理由である。

 息を吐けば、口から白い息が出た。

 なんとなく楽しくなって、大きく息を吸い込みもう一度。

 再び出た白い息を見て、あゆはにっこりと笑った。



「……秋子さんの手伝いに行こっと!」



 笑顔のままで両手をポンと叩く。

 毎日毎日朝の食事の手伝いはあゆがしているのだ。

 簡単に着替えを終えて、寝巻きを持って階下に行き、洗濯籠の中へそれを入れる。



「えっと、まだ祐一くんと名雪さんのがないからまだだね」



 手を口にあて、考え込むようにそう言った。

 冬休みだから、二人ともまだ寝ているに違いない。あゆはそう判断した。

 洗濯もあゆの仕事。強引に押し通しさせてもらっているのである。

 早いうちに籠の中身だけでも入れておこうと思い、洗濯籠へ手を突っ込んだあゆはそこで変なものを見つけた。



「あれ? なんだろう、これ」



 あゆはくしゃくしゃに丸められたタオルを見て、そう言った。

 開いてみると、何か黄色い染みが出来ている。何に使ったのか全くわからず、あゆは疑問符を頭の上に浮かべた。



「別にいいよね。変なことじゃないだろうし」



 しかし、それもごく僅かなことで、あゆは深く考えずに洗濯機の中に放り込んだ。

 上から順番に衣服を入れていく。少しだけ考えて、あゆは洗濯をすることにした。

 四人家族であるから、どうせ一回の洗濯では全部は終わらないのである。

 グルングルンと洗濯機が音を立てて動く。

 それを横目で眺めながら、あゆは足を台所へと向けた。丁度今の時間帯ならば、秋子が朝ごはんの用意をしているはずだ。

 廊下にスリッパの音がたつ。あゆが台所へと繋がるドアを開けようとした、丁度その時。



「あら、あゆちゃん。今日は早いのね」



 向こう側からドアが開き、そこにはエプロンを付けた秋子がいた。



「あ、秋子さん。おはようございます」

「おはようございます」



 お互いに頭を下げて、朝の挨拶をした。



「あれ? 秋子さん。今日の朝ごはんは和食じゃ……」



 秋子とドアの隙間から見えるテーブルの上に置かれているものを見て、あゆはそう言った。

 水瀬家の朝ごはんは日ごとに和食か洋食かになる。今朝は和食のはずなのだが、用意されているものは洋食だ。

 自分の記憶に間違いがあったのだろうかとあゆは頭を悩ませた。



「ええ、今日は和食なんですけど、ちょっと事情があってね」



 いつも通りに頬に手をあて、秋子は苦笑いをした。



「ですから、あゆちゃん。これから祐一さんと名雪を起こしてきてくれないかしら。祐一さんのほうは早く起きるだろうから、先に名雪から起こしてくださいね」

「うんっ、わかったよ」



 そう言って、あゆは廊下を走り、階段を上がっていく。

 途中で何故名雪から起こさなければならないのかと疑問に思いもしたが、深くは考えなかった。

 スリッパの音が再び響く。本当に良く聞こえる音だと秋子は思った。



「さぁ、祐一さん。今のうちですよ」



 振り返り、一言。

 台所の食器棚の前にへばりつくように立っていた祐一に声をかけた。



「もう大丈夫ですか?」

「ええ。でも、早くしないと名雪が起きてしまいますよ」

「わかってます。じゃあ寝たふりをしてきますんで」

「はいはい」



 祐一は秋子に礼をして、足音をたてずに階段を上っていった。



「一晩中かかるなんて……やっぱり見ていたほうがよかったかしら」



 つい先ほどまで祐一と一緒に急いで片付けた台所を見て秋子は漏らした。

 二階からはあゆの大声が聞こえてきていた。














「えっと、これにこれに……」

「あゆちゃん、これもだよ」

「あ、そっか。ありがとう名雪さん」

「どういたしまして、だよ」



 カゴを持って、食材を選んでいたあゆに名雪は笑いながらそう言った。



「次は果物だよ。秋子さんが果物がいるんだって」

「果物!」



 名雪の目がキラキラと煌きだした。

 同時に、名雪から気迫のようなものが放出される。あゆはそれを見て、一歩退いた。



「イチゴだよ! あゆちゃん、イチゴを買うよ!」

「う、うん」



 普段はのんびりとした人なのに、どうしてこうも変わちゃうんだろう。

 あゆはあまりに品物の入っていないカゴを左手で持ちながら、小さく呟いた。

 今、あゆは商店街のスーパーにいる。外はほんのりと薄暗く、そろそろ闇が空を覆い隠す時間帯だ。

 目的は夕ごはんの材料を買うこと。本来ならば、事前に買っているのだが、急に足りなくなったから買ってきてくれと秋子に頼まれたからだ。

 祐一に一緒に来てもらおうかとも考えなくもなかったが、祐一は風邪でもないのに朝から部屋にこもりっきりで出てこない。無理矢理は気が引けるので、一人で出ようとしたところを名雪に見つかり、二人で買い物に来ていた。



「あゆちゃん、これ」



 イチゴが置いてある場所につくと同時に、名雪は一つのパックに入ったイチゴを指差した。

 どれもこれも真っ赤で美味しそうなイチゴがところせましと詰められている。



「これでいいの?」

「うんっ、わたしのイチゴを見る目はなめちゃだめだよ。すごく自信あるから」



 自信たっぷりに頷く名雪を見て、あゆはそれをカゴの中に入れた。

 動物では猫。果物ではイチゴをこよなく愛する名雪だ、間違いはないだろう。



「えっと、後は……」

「もうないよ。わたしは全部覚えてるから」

「すごいね、名雪さん。全部覚えてるなんて」

「あゆちゃんだって、やろうと思えばできるよ」



 名雪は笑いながらあゆの背中を押し、レジへと誘導する。と



「あ、ところで、今何時かな?」



 そこで腕時計をしていない名雪が思い出したかのように呟いた。

 あゆが右手をまくり、腕時計を見る。アナログのシックな感じがする時計だ。



「えっと……十七時十九分だよ」

「う〜ん……そっか」



 時間を聞いて唸る名雪。



「まあ、いいよね。じゃあ、あゆちゃんお会計済ませちゃおうよ」



 あゆから強引にカゴを奪うように取り、名雪はさっさとレジの列に並んだ。遅れながら、あゆもまたその後ろにつく。

 レジの女性に代金を払い、二人でカゴを台の上へ。そこで、スーパーの袋を取り出し、中に荷物を詰めていく。

 イチゴが一番上になったのはご愛嬌というやつだろう。

 名雪がスーパーの袋を持った。

 理由を訊けば、イチゴがあるからわたしが持っていたいんだよ。という簡潔なものだった。

 あゆが思いっきり笑うと、名雪は気分を害したかのように顔を曇らせた。

 慌ててあゆが謝罪した。すると、意地の悪い笑みを浮かべ、いきなり走り始めた。

 名雪はこう見えても、陸上部に所属していた身だ。恐ろしく足が速い。



「な、名雪さん! 待ってよ!」

「いやだよ〜」



 こっちは一生懸命走っているのに、名雪はというとにこにこ笑っている。

 あゆは少しだけ劣等感を感じた。だが、それもほんの一瞬のことで、名雪の後を追っていく。

 結局、二人の追いかけっこは水瀬家につくまで続いた。



「う〜ん、あゆちゃん結構早いんだね。びっくりしたよ」

「う、うぐぅ……」



 肩をつき、額に汗をびっしりとかいているあゆとは対照的に、汗一つかいていない名雪は笑いながらそう言った。



「駄目だよ。そんなところで息を整えたら。いい、息を整える時はね歩くんだよ。体に悪いんだから」



 名雪がスーパーの袋を持ったままあゆの背中を押す。

 無理矢理やらされるような形であゆは歩いた。本当なら歩きたくもないくらい息が上がっているのだが、陸上部出身の名雪が言うことである。素直に聞いていた。

 しばらくすると息も収まってきた。

 名雪にその旨を伝えると、じゃあ家に上がるよ。と言ってナ雪が水瀬家のドアを開けた。



「ただいまっ」



 二人に声は揃っていた。

 幸いにも雪に降られずにすんだので、靴についている雪を落とし、玄関に上がる。

 もっとも、二人も入れば玄関は一杯になる。今は荷物を持っている名雪が先に上がり、それに続いてあゆが玄関に上がった。



「先にあがってるよ」

「うんっ」



 靴を揃え、スリッパを履いて廊下を歩いていく名雪を尻目にあゆは玄関の縁に座り込んだ。

 疲れが座っている場所から抜けていく。適度に暖められている廊下も気持ちが良かった。

 手袋を外し、ポケットへ。一年前の冬につけていたものではなく、秋子が編んでくれた手編みの手袋だ。

 それから靴を脱ぎ、端っこに寄せる。立ち上がったときに、思わず「よいしょっ」と言ってしまったのが恥ずかしかった。

 走ったせいか、疲れている体を引っ張ってリビングのドアを開ける。

 今の時間帯ならば、祐一も秋子も、帰ってきたばかりの名雪もそこにいるはずだった。



「……あれ?」



 思わずあゆはそう言っていた。

 彼女の目の前は闇が広がっていた。

 どうして電気がついていないんだろうか。

 頭に疑問符を浮かべ、電気をつけるために暗闇の中を手探りした。

 壁の感触。住んで一年目の家であるから、どこになにがあるかはわかっているつもりだ。



「あ、あった」



 そう言って、あゆが電気のスイッチを押そうとした、丁度その時。

 パアッと電気がついた。

 いきなり眩しくなったことで、あゆはとっさに目を押さえた。

 パンと甲高い音が聞こえたような気がした。

 徐々に光に慣れ、あゆは目を押さえていた手をどけた。

 ひらけた視界の先には、祐一がいた。手にはクラッカーを持っている。名雪もだ。

 恐らくさっきの音はクラッカーだったとあゆは確信した。その証拠に、色とりどりの紙が自分の頭から垂れ下がっていた。

 そして、次に入ったのはリビングに置かれた料理の山だった。中心にはあゆの大好物であるたい焼きまである。

 今日は何か特別な日だっただろうかと、あゆは考えた。

 そんなあゆに疑問を覚えたのか、それとも期待していたリアクションを得ることの出来なかったのかはわからないが、祐一はきょとんとした感じで口を開いた。



「おい、あゆ。なにしてるんだよ。嬉しくないのか?」

「嬉しい? ボクが?」



 祐一の言葉の意味がわからず、あゆは首をかしげた。



「あれ? 驚かなかったのか? お前にばれない様に頑張ってたんだが……」

「うぐぅ、確かに驚いたけどなにがばれない様に、なの?」

「あゆ、お前……今日が何日か知ってるか?」

「当たり前だよ。一月七日だよ」



 心底わけがわからないといった感じであゆが言った。



「あれ? 間違ってる?」

「い、いや、あってる。それで、今日は何の日だ?」



 祐一に問われ、あゆは答えを出そうと頭を捻った。

 しかし、答えは出てこない。ゴミの日ならば昨日だったし、風呂洗いの当番は祐一だったはずだ。



「何の日なの? ボクにはわからないんだけど……」

「何言ってんだよ。あゆ、お前の誕生日じゃないか。そんなことすら忘れてたのか?」

「誕生日……?」

「ああ、そうだ。お前の誕生日だよ」 「誕生日……誕生日……」

 あゆは繰り返し繰り返しそう呟いた。

 誕生日。生まれた日。自分が自分として生を受けた日。

 その程度の意味ならもちろんあゆだって知っていた。昔はとても楽しみにしていた日だったから。

 記憶の関が決壊し、さながら滝のように蘇ってくる。

 今はいない家族とすごしたささやかな誕生日。

 買ってきたケーキを二人で囲み、ささやかな手料理を一緒に食べた。

 たった一年に一回だけの贅沢だった。

 ろうそくを自分の歳の分だけ並べて、吹き消す。

 一回では消せなくて、何度も何度も。そんな昔の記憶。今はもうなくなってしまった記憶。

 そして、七年間味わうことも、喜ぶこともなかった日。



「お、おい、あゆ。なんで泣くんだよ!」

「え、あ、あれ? ボク……ボク……」



 祐一の慌てた声に正気に戻る。

 そして、自然に涙が流れていたことを理解した。

 八年ぶりの誕生日。自分すら忘れていた日。いや、忘れようとしていたのかもしれない日。

 それを目の前にいる人たちは覚えていた。祝ってくれた。

 言葉ではいいあらわせないくらいの喜びがあった。充足感があった。心が温まった。

 同時に、哀しかった。言葉では言い表せないくらい哀しかった。



「そっか、ボクの誕生日なんだ……えへへ、忘れてたよ。ボク、物覚えが悪いから」



 涙を拭って笑顔を作った。

 悟られるのは嫌だった。ただでさえあたたかいものを貰っているのだ、これ以上もらってしまうわけにはいかなかった。。

 しかし、あゆの目の前にいるのは人の機微に聡い人物ばかりだった。

 名雪も、秋子も。そして、祐一もあゆの心に気づいた。いや、気づいてしまったというほうが正しかった。

 よく考えてみればとても簡単なことだ。あゆは七年間眠りについていた。たったそれだけで全ての説明がつく。

 迂闊なことをした。

 祐一は自分の計画を恨んだ。

 あゆの誕生日を盛大に祝おうとして精一杯隠しながら用意をした。なのに、あゆの心をわかってはやれなかった。

 確かにあゆは喜んでいるだろう。だが、同時に寂寥感、空白感そんなものを感じてしまったに違いない。

 あゆの心の底まではわからなかったが、今はそれで十分だったのかもしれない。

 だから、祐一はつとめて明るく言った。



「そうだ、全くバカだな」



 いつもより強く頭を叩く。

 ぽんぽんという音じゃない、べしべしと言った方が適切である。



「いた、痛いよ! なにするんだよっ!」

「叩いてるんだ」

「そんなことはわかってるよっ! なんで叩くんだよっ!」

「あゆがバカだから」

「頭を叩くと脳細胞が死ぬんだよ! もっとバカになるよ!」

「知らん」

「祐一くん!」

「知らんといったら知らん」



 あゆの言葉など何処吹く風。祐一はあゆの頭を叩きまくった。

 ただ、力は段々と抑えていった。



「うぐぅ、やっぱり祐一くんは意地悪だよ。隠してたのも祐一くんでしょ?」

「ぐっ、鋭くなりやがったな……」

「当然だよ」



 勝ち誇ったかのようにあゆが胸を張った。

 わざとらしいのは端からみても明らかだ。

 だが、それでよかった。そのわざとらしさに乗らなければならないのだ。



「しかしな、あゆ。お前は気づくまい」



 それに乗って、祐一はふっふっふっと怪しく笑った。



「テーブルの真ん中。なにが見える」

「たい焼き」

「違う! その横だ!」

「うぐぅ、痛い……」



 なんのためらいもなく答えたあゆの頭を一応殴り、祐一はびしっとテーブルに向かって指を差した。



「えっと、天ぷら」

「その右だ!」

「イチゴサンデー」

「……なんでそんなものがあるのかはおいておいて、その上だ」



 何故か脱力している祐一を横目でちらっと見て、あゆはテーブルの上を見た。

 天ぷらの右。イチゴサンデーの上。順番に目を動かしていく。

 そして、目に入ったもの。それは不細工な物体だった。

 いや、不細工というのは的確ではないのかもしれない。だが、そのほかに表現する言葉さえも浮かばなかった。

 その物体は、小さく、ボロボロで、前衛芸術を見せられているような感じで、とにかく変だった。



「えっと……なに、あれ?」



 あゆは正直にそう言った。

 それに対する返答は、グーだった。



「うぐぅ、痛いよ……」



 かなり本気で振り下ろされたようで、あゆは涙目になっている。

 それを見た名雪は、慌ててあゆに言った。



「あゆちゃん、あれはケーキなんだよ。ケーキ」

「ケーキ?」



 そういわれてみれば、そうかもしれない。

 あの白いものは生クリームで、いびつにそろえられたイチゴものっている。

 ただ、スポンジであろう土台はほとんど崩れているといっても過言ではなく、パリの斜塔を彷彿させるかのような角度である。



「でも、ずいぶんとヘタなケーキだよね」

「あ、あゆちゃん」



 慌てる名雪を疑問に思いながら、あゆはケーキに近づいた。

 近くから凝視してみるが、やっぱりケーキというよりは前衛芸術と言った方が良く似合うかもしれないなとあゆは思った。

 味わうまでもなく味がわかりそうなシルエット。

 一年前までの自分の料理が自然と思い出された。

 目の前にあるのは、祐一から碁石クッキーと称されたものとほとんど変わらない。



「このケーキ誰が作ったのかな?」

「あ、あゆちゃんってば!」

「ボクよりもひどいよ」

「だから、あゆちゃん!」



 必死に名雪が呼びかけるが、あゆの耳には届いていないようである。

 あゆはヘタクソなケーキを凝視している。



「ねぇ、ゆういちく――」



 ドコン。

 そんな音が、水瀬家のリビングに響き渡った。

 なにが起こったのかわけがわからず、あゆは瞼を上下させる。

 ただ一つだけわかっていることは、頭が痛いこと。

 そして、瞳に映ったのは拳を握り締めて立っている祐一の姿だった。

 心なしか、祐一の目が吊りあがっているような気がした。



「ほっんとうに痛いよ! なにするんだよっ!」

「やかましい!」



 きっと殴られたに違いないと思っている頭を押さえながら、あゆは大声で叫んだ。

 目尻に自然と涙が溜まってくる。というか、殴られたに違いないではなくて、絶対に殴られた。滅茶苦茶痛かったのだ。



「どうせ俺は下手糞だ! 悪かったな!」



 祐一はそう言って、あゆに背中を向けた。

 その背中から、俺は怒っているぞオーラが醸し出されていた。

 そこで、あゆはやっと事情を理解した。つまり――



「……祐一くんが作ったの? これ」



 ケーキを指差しながら、恐る恐る祐一に尋ねる。

 だが、祐一は返事をしない。返ってくるのは、無言の沈黙だけだった。



「あ、あの、祐一くん?」



 もう一度呼びかけてみる。

 頭二つ分は違うから、上を見上げながら呼びかけた。

 もちろん返事はなかった。

 依然としてオーラが醸し出されている。



「……うぐぅ」



 あゆは思わず呟いた。だが、呟いたところで何かが変わるわけでもない。

 もっと早く気づけばよかった――あゆがそう後悔したことはごくごく自然のことだった。

 うぐぅ。ともう一度呟く。

 その時、あゆの肩がちょんちょんと小さく控えめに叩かれた。

 振り返れば、名雪が無言で何かに指を差している。その先を辿ると、祐一の作ったケーキがあった。



『どうするの?』



 そういうニュアンスが伝わるように、あゆは首をかしげた。

 すると、名雪が何かを掴むジェスチャーをし、それから口に運ぶ。

 あゆはそれを真似して、もう一度首をかしげた。

 名雪がゆっくりと頷く。どうやらそれでいけといっているらしいことは、あゆにでもわかる。

 名雪のジェスチャーを解読すれば、ケーキを食べろということになる。

 少々強引に思えたので、あゆは確かめのジェスチャーをしたのだが、肯定されてしまった。

 本当にこれで祐一の機嫌が治るのかと思うと、複雑であったが、そもそも気づかなかった自分がいけないのだ。

 これくらいことはやらなければならない。あゆはそう決心した。



「祐一くん、じゃあケーキ食べるからね。いただきます」



 テーブルの前に座り、電光石火の所業でケーキののった皿を取る。

 あるであろう祐一の妨害を予想し、即座にケーキを口に運ぶ。

 口に入れた瞬間、祐一が慌てて振り返るのが見えた。



「ああ!」



 祐一のその声と、あゆがケーキを口に入れたのとは同時だった。



「なに食ってるんだよ! それは最後の最後にロウソクを立てて食うんだよ! 吐け! 早く吐け!」



 ケーキを一欠けら口に入れた状態で、激しく前後に揺さぶられる。

 それはさながらミキサーのようで、あゆの頭は段々ぼーっとしてきた。



「吐け吐け吐け吐け吐け!」

「うぐうぐうぐうぐうぐっ!」



 更にスピードアップした振りに、あゆは声を出した。

 幸いにもケーキは飲み込んだ後であったので、食事のマナーとして最悪のことにならずに済んだ。

 しかし、祐一の腕は止まることを知らずにひたすらにあゆを揺さぶる。

 毎朝の特訓が効いているのかはわからないが、本当に止まらない。あゆはぼーっとするよりも、吐き気を覚えてきた。

 このままだと祐一の言っている通り、吐いてしまうかもしれない。



「ゆ、ゆゆゆゆういちくん、は、はいちゃうよ、やめめめて」

「うるさい! 勝手に食う奴がいるか! 俺の九時間にも及ぶ傑作をぉ!」



 半ば泣くような声をだす祐一。それとは逆に腕のスピードは更に上がっていく。



「一本だけロウソクを立てて、お前が目覚めて一年経ったという証として! 俺がわざわざ焼いたというのに……吐けぇ!」

「むむむちゃ言わないでよ、はけけけるわけないよ!」

「なんとしても吐け! 絶対に吐け! 吐かないのなら俺がちょくせ――」

「祐一、やりすぎだよ!」

「ぐえ!」



 何かとってもいい音がした。

 呻き声が上がった。

 揺さぶられているのが止まった。

 そして、祐一の体があゆの方にゆっくりと沈んでいった。

 もちろん、あゆが避けられるはずはなかった。



「お、重たいよっ! 祐一くんどいてよっ!」



 テーブルに両手をつき、必死に力を入れる。

 あゆの目の前にはケーキがあるのだ。潰してしまうわけにはいかない。



「祐一くん!」



 もう一度叫ぶ。

 祐一は一般的な成人男性の体重であるし、あゆは小柄だ。

 あゆの細腕が震える。

 あゆの筋力如きでは、祐一の体重を支えることなどできない。

 しかし、返事が無い。

 変だと思いつつ、もう一度叫ぼうとしたその時、後ろから名雪の申し訳なさそうな声がした。



「あのさ、あゆちゃん……ごめんね」



 名雪が何故謝っているかを理解できず、あゆは頭に疑問符を浮かべた。



「その……祐一ね、あの……気絶してる……んだ」

「え!?」

「ちょっと力入れすぎちゃったみたいだよ」



 困っちゃうよね。と言い足した名雪の手には、フライパンが握られていた。

 恐らくあれで祐一を殴ったに違いない。力一杯あゆは確信した。



「じゃ、じゃあ名雪さん。早く退けてよ! 重いよっ!」

「頑張ってるんだけど、中々動かなくて。祐一って重いんだね〜」

「そんなのんびりしないでっ!」

「だから、もうちょっと待ってね」

「うぐぅー!」



 結局、あゆは丁度三分間、祐一の体を支えていた。

 後日筋肉痛になることを、あゆはこの時確信していた。

 ついでに、祐一は完全に気絶していた。頭にたんこぶが出来ていたのもあゆの想像通りだった。














「祐一くん、祐一くん……」



 祐一の耳元で、あゆが控えめに呟いた。

 優しく体を揺する。

 小さな明かりがついた部屋での、何度目かになるかわからないあゆの呼びかけ。



「うぐぅ……起きないよ」



 どこか嬉しそうに、だけどちょっぴり哀しそうに呟く。

 祐一を揺らしていた右手を上げる。腕をまくり、つけたままにしておいた腕時計を覗いた。

 しかし、明かりの場所が悪いのか見えない。仕方無くかけられている時計を見て、あゆはふぅと一息吐いた。



「もう、祐一くんが起きないから……ボクの誕生日。終わっちゃったよ」



 くすりと笑いながら、あゆは祐一の頭を撫でた。

 男のくせにやけに柔らかい髪質が手を満たしてくれる。ホントに羨ましい髪の毛だ。

 ふさふさの猫を触ったらこんな感じなのだろうか。なんとなくそう思った。

 あゆの横。テーブルの上には冷めた料理が所狭しと並んでいる。

 祐一が起きた後に食べようと取っていた料理だ。結局、口をつけていない。

 名雪はもう寝てしまい、秋子も今は風呂に入っている。

 あゆと祐一。今、この時は二人だけの部屋だった。



「祐一くん、ありがとう。秋子さんから聞いたよ。ボクのために夜なべして作ってくれたんだよね」



 祐一の枕をそっと横に置く。

 暖かい羽毛布団に包まれている祐一の体。

 柔らかい髪質の頭。

 それを両手で、壊れ物を扱うようにあゆは持ち上げた。

 ずっしりとした重みがあゆの手を満たす。

 先ほど、祐一を支えていたのが原因なのであろう。筋肉が痛む。

 うんしょっ、と気合を入れて、あゆはそれを自分の膝の上に乗せた。

 祐一の顔が目の前にあった。髪が、目が、口が、鼻が。全てが目の前にあった。

 もう一度、母親が子どもにするように頭を撫でる。

 祐一の寝息が聞こえてきた。祐一は、気絶した後、そのまま眠ってしまったのだ。

 聞くところによれば、昨日から一睡もしていないらしい。

 朝までずっとケーキを作って、それからはずっと飾り物を作っていたそうだ。

 祐一くんらしいな。あゆは呆れながらも笑った。

 下がっている『誕生日おめでとう』という垂れ幕も、色紙で作られた輪っかも。全部が全部祐一の手作りだった。

 多分、朝見つけたタオルも、祐一が零した生地なんかを慌てて拭いたためにだろう。

 台拭きも使わず、汗を拭うためにかけていたであろうタオルで。

 くすり、と笑った。

 本当のホントに祐一くんはこうなんだ。

 いっつもボクには悟らせないでこういうことをする。

 ホントに迷惑な人だ。

 迷惑で迷惑でとても優しい人だ。

 気がつくと、あゆは涙を流していた。

 あゆ自身にもわかった。それは嬉し涙だった。



「ありがとう、祐一くん」



 そっと、そう言って、あゆは顔を近づけた。

 ちょっとだけ時間が経って、頭を元の位置に戻す。

 ちょっとだけ赤くなった顔を逸らし、ついていた明かりを消した。

 このままここで寝てしまおうと考えた結果。

 程なくして、寝息が二つ聞こえてきた。

 そして、音もなくドアが開いた。ドア越しに立っていた秋子が頬に手をあて、笑う。

 あゆの肩に、蒲団をかけてやり、ケーキを一瞥した。

 そのままにっこりと笑い、秋子は出て行く。





 ケーキには、一本だけロウソクが立てられており、ヘタクソな字で書かれた『誕生日おめでとう』というチョコレートで作られたカードがあった。

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