彼の人に捧げる挽歌


第九章  混迷















 四月二十九日、木曜日。

 空は、少し曇っていた。 それでも、薄暗くなるほど暗雲が垂れこめている、というわけでもなく、白い雲が空を覆っているといったところだ。 雨が降りそうだ、というわけではないにしても、太陽は薄く覆われているため、陽射しはやや弱い。 あるいは、今日でなくても、近いうちに雨に変わるかもしれないが。
 そんな微妙な天候の中、祐一と舞は、二人並んで通りを歩いていた。 昨日言っていた通り、舞が朝から水瀬家にやってきて、祐一を連れ出してきたわけだ。
 休日ゆえに、商店街などは活気に溢れていたが、そんな喧騒に気を取られることもなく、二人は黙々と歩き続けている。 けれどやはり、気まずい空気が流れているわけではない。

「……俺、狙われてるんだよな。こんな風に歩いてて、大丈夫かな?」

 祐一がぽつりと漏らした一言。 けれど舞は、意に介した様子も見せなかった。

「大丈夫だと思う」
「けどさ、もし舞まで巻き込んだら……」
「心配いらない。ちゃんと周りに気を配ってるから」
「そうなのか」

 祐一の言葉に、こくりと頷く舞。 なるほど、水瀬家からここまで、見通しが良い道を選んで歩いていたのは、そういう意味だったのか、と祐一は感心しきりだった。 それならば、とりあえず今は安心なのかもしれない。

「いつ襲われるかわからないから、油断だけはしないで」
「あぁ、わかった」

 それだけ話すと、再び舞は沈黙し、祐一も黙って歩き続けることにする。 自分の身さえ自分で守れないのは、少しばかり情けない気がしないでもないが、相手は銃を持っているのだ。 祐一にどうにかできるわけもない。 舞の言った通り、できるかぎり狙われにくい状況に自分を置いておくこと以外には。
 迷いのない足取りで、警戒を怠ることなく歩き続ける舞と、それに引っ張られるような感じで歩く祐一。 結局この日は、祐一が襲われることはなかったため、そんな心配は杞憂に終わったわけだが。



「佐祐理、お待たせ」
「あ、舞、祐一さん。こんにちは」
「佐祐理さん……」

 祐一と舞がたどり着いた倉田家の前。 そこで、佐祐理が二人を待っていた。 舞に気付いた佐祐理は、笑顔で二人に挨拶の言葉を向ける。 それは、いつも通りの彼女。
 祐一が射殺されかけたこと。 過去を思い出し、苦悩したこと。 それでも何とか立ち直ったこと。 そうしたこれまでの事情を、佐祐理が知らないわけがない。 舞や秋子から話は聞いているだろうし、心配だってしたはずだ。
 それでも佐祐理は、何も聞こうともせずに、ただ笑顔で祐一に接している。 いつも通りの笑顔で、いつも通りに話しかけている。 そのことが、祐一の表情を柔らかいものに変えた。

「それでは、早速ですけど、出かけましょうか」

 ぱん、と手を胸の前で合わせると、佐祐理が自分の後ろに目を向ける。 つられて祐一がそちらに目を向けると、そこには一台の車が止まっていた。 運転席には、初老の男性が座っている。 おそらく、倉田家お抱えの運転手なのだろう。

「出かけるってどこにですか? 俺、何も聞いてないんですけど」

 どんどん展開する話についていけなくなったのか、祐一が話の腰を折る。 その言葉を聞いて、舞と佐祐理が、顔を見合わせ、少しきょとんとした表情を見せる。

「あれ? 舞、まだ祐一さんに何も言ってなかったの?」
「……忘れてた」
「おいおい〜……」

 少し考えてから発せられた舞の言葉のせいか、脱力したように肩を落とす祐一。 舞は特に気にした様子も見せていないが、佐祐理は少しばかり呆気にとられたようだ。 微妙な笑いを口元に浮かべている。

「え、えーと、時間の都合もありますから、車の中で説明しますね」

 佐祐理の言葉に、祐一と舞も頷きを返すと、促されるままに車に乗り込む。 かなりの高級車のようだ。 クッションの効きが、普通の車とは全然違う。 言ってみれば庶民に過ぎない祐一からすれば、少しばかり恐縮してしまう。 まぁ、同じく庶民のはずの舞は、祐一と違って、普段通り飄々としていたのだが。

「それではお嬢様。発車いたします」
「はい、お願いしますね」

 運転手の言葉に佐祐理が頷くと、車は静かに動き始める。 動き出す瞬間にさえ、車はほとんど揺れなかった。 いかにも高級車という風情。 もっともこれには、車の性能だけでなく、運転手の技術もあるのだろうが。
 祐一の隣で、車窓の向こうを流れてゆく景色を見ている舞。 窓際に顔を寄せて、どこか楽しそうにしていた。 そんな舞の邪魔をするのも気が引けたのか、祐一は、反対側の隣にいる佐祐理の方を向く。

「それで、佐祐理さん。俺達はどこに向かってるの?」
「はい。村岡先生というお医者様の家に向かってます」
「医者?」
「そうです。総合病院で、月宮あゆさんの担当をしていらっしゃった先生です」
「……そっか」

 月宮あゆ、という名前が佐祐理の口から出た瞬間、祐一の表情が少し硬くなる。 けれど、それでも佐祐理を見ている目を、逸らしたりはしなかった。
 そして佐祐理は、笑みを消した顔で、静かに口を開く。

「昨日、秋子さんのお話を聞いて、あゆさんを診ていらっしゃった先生のお話を、祐一さんも聞きたいのではないか、と思いまして。それで連絡をとったんです。もしかしたら余計なことかもしれませんけど……でも」
「わかってるよ、佐祐理さん。俺は、これまであゆに何もしてやれなかった。だから、せめて知っていてあげたい。今度こそ、忘れないでいてやりたいんだ」

 そう言って、祐一が小さく微笑む。 そして佐祐理の方を見たまま、さらに言葉を続ける。

「だから、あゆを診ていた医者には、ぜひ話が聞きたいと思ってたんだ。ありがとう、佐祐理さん」
「……いえ、お安い御用ですよ」

 そう言ってから、佐祐理も再び笑顔を見せる。 二人で小さく笑うと、場の空気も、柔らかいものに変わった。
 車は、祝日にしては空いている通りを、滑るように走ってゆく。 目的地に到着したのは、佐祐理が先方に申し入れた時刻より、若干早い時刻。 時間通りになるように、その場でしばらく待ってから、三人は家を尋ねることにした。







「この度は、無理を言って申し訳ありませんでした」
「いや、気にしなくてもいい。特に用事があるわけでもないのでな」

 村岡は、家にやってきた祐一達を、応接間に案内した。 村岡の家は、広い土地を贅沢に使っており、庭も凝った造りをしていた。 外観だけ見ると、いかにも日本家屋、といった風情なのだが、この応接間は洋風の造りになっている。 部屋には暖炉が構えられているし、調度品もヨーロッパ風で、これはおそらく輸入品なのだろう。 暖炉の上には、動物の剥製が飾られていたりして、その上には、大きな絵画がかけられている。
 派手に飾っているわけではないが、一つ一つの調度品からして、かなり高級なものとすぐわかる。 少なくとも、金に困っている人間にできることではない。 かなり裕福な暮らしをしていることが、その部屋の端々から感じられた。
 そんな豪奢な部屋に入って、少し緊張しながらも、三人は勧められるままに席につき、佐祐理がまずは今日の件について、一つ頭を下げる。 祐一と舞もまたそれに続いたのだが、村岡は手を振って、気にしないように、という意思表示を見せた。
 それから、お手伝いらしき女性が、お茶とお茶菓子を運んできて、丁寧に三人の目の前に並べる。 洗練されたその所作からは、経験と年季が感じられた。
 彼女が、一つ礼をしてから部屋を辞すと、村岡がゆっくりと口を開いた。

「妻ももうなくしたのでな。彼女にはずいぶん助けられているよ」

 少し疲れているかのような、そんな声で、村岡が話した。 おそらく、先程の彼女を雇っている理由についてのことだろう。 祐一達は、コメントは差し控えた。

「まぁ、遠慮せずにどうぞ。長い話になるかもしれんしな」

 その言葉に勢いを得たのか、目の前にお茶菓子が並べられてから、少しばかりそわそわした表情をしていた舞が、ちらりと村岡に目を向けた。 その舞の視線の意味に気付いたのか、村岡は小さく頷いた。

「いただきます」

 そう言って、手を顔の前で合わせる。 そんな舞の仕草を見て、村岡は若干表情を緩めている。 微笑ましげな視線だった。

「えぇと、自己紹介もしてませんでした。俺は……」
「知っているよ。相沢祐一君、だろう?」
「あ、はい……」
「そして、そちらが倉田佐祐理さんで、そちらが川澄舞さん」

 名前を呼ばれて、祐一が若干戸惑っていたが、すぐにその理由に思い当たる。

「あゆの担当をしていたから、俺の名前を知っていたんですね?」

 あゆが木から落ちて病院に運ばれた際に、血まみれで茫然自失状態になっていた祐一もまた、病院に運ばれたのだ。 幸い体に異常はなかったため、迎えに来た秋子に連れ帰られると、それきり病院に来ることはなかったのだが、あゆを診ていた医者ならば、覚えていても不思議ではない。

「まぁ、それもあるが……」
「え? 違うんですか?」

 少し苦笑する村岡。 きょとんとした表情を見せる祐一。

「覚えてないかね? 学校の健康診断の時にも会っているのだが」
「あ……」

 祐一の通っている高校の近隣にある総合病院は、村岡が勤めている所だけ。 それもあって、学校の健康診断は、この病院に一任しているのだ。 よって、新学期が始まってすぐに行われた健康診断で、祐一は、村岡と顔を合わせていることになる。

「す、すいません」
「いや、仕方がないだろう。健康診断で、医者の顔をまじまじと見る人間など、おらんからな」

 恐縮する祐一を他所に、村岡が軽く笑う。

「それで……月宮君のことだったな」
「……はい」

 月宮という言葉が出た途端に、村岡の表情も祐一の表情も、真剣なものになる。 それはすなわち、話が本題に入ったということ。 祐一はまっすぐ村岡を見ている。 村岡は、大きく息をつくと、座っているソファにもたれかかった。

「彼女は……本当に眠るように亡くなったよ」

 舞も佐祐理も、ここからは自分達が口を挟んでいい領域ではないと察しているのか、じっと話を聞いている。 祐一にしても、まずは話を聞くことにしているらしい。

「結局、七年前から、病状が変わることはなかった。良くなるわけではなかったが、さりとて悪くなるわけでもない。そんな状態が、七年間ずっと続いていたのだ」

 まるで、これまでの七年に思いを馳せるかのように、静かに話し続ける村岡。 天を仰ぐような姿勢のまま、目を閉じて、淡々と過去を語る。 その言葉に耳を傾ける三人。

「だが、今年の二月の中頃からか……突然、彼女の病状が悪化し始めたのだ。原因はわからない。だが、彼女の状態は、どんどん悪くなっていった」

 村岡の声は、祐一の心に重く響く。 表情が悲しげなものになっているのは、舞や佐祐理にしても同様だ。
 そして、村岡が上げていた視線を戻す。

「そして、三月二十一日。とうとう彼女は帰らぬ人となった。七年前から、一度として意識を取り戻すこともなく。最期まで、静かに眠り続けたまま」
「……一度も、目を覚まさなかったんですか?」

 少し掠れた祐一の声。 その確認の言葉に対し、村岡は、頷くことで答えた。

「お見舞いに来る人とかは……」
「少なくとも、私の知る限り、ここ最近はなかったな」
「親戚の人間とかもですか?」
「最初の頃はいなかったわけではないが、一年も経たないうちに、来ることもなくなってしまったよ」
「そうですか……」

 悲しげな祐一の目が、静かに伏せられる。 孤独の中の彼女の死という事実が、今、現実味を持って眼前に突きつけられたのだから、それも無理はないところではあるが。

「あの、入院でかかった費用は、どうなっていたんでしょう?」
「彼女の両親が残した生命保険から出ていたと聞いたが」
「そうなんですか……」

 佐祐理の質問に対する答えは、明確なものだった。 祐一は、あゆが母を失った直後に、彼女に出会っている。 その母が残したお金が、あゆの命を繋ぎとめる役割を果たすとは、誰も予想だにしていなかったことだろう。 あまりに悲しい現実。 その事実が、祐一の心に、深く突き刺さる。

「……すいませんでした、俺……」
「私に謝ることではない。私は、自分の仕事を果たしただけなのだから。謝るとしたら、それは相手が違うだろう」

 村岡は、静かな調子でそう話すと、一枚の紙を祐一に手渡す。 受け取った紙を見つめる祐一。 それは、簡単な地図。

「これは?」
「月宮君の墓があるところだ。行ってあげなさい。きっと彼女も喜ぶ」
「……はい」

 村岡の話した、墓という言葉に、若干目を見開いた祐一。 だが、ほどなくして、ゆっくりと頷いた。 まるで、村岡のその言葉を噛み締めるかのように。



「それでは、今日は本当にありがとうございました」
「いや、話をして、私も肩の荷を少し降ろせた気分だよ」

 その後も、しばらくの間、あゆに関する話をしていた祐一達だったが、あまり長居をするわけにもいかない、ということで、村岡の家を辞することにした。 玄関先まで見送ってくれた村岡に、深々と頭を下げる祐一達。 村岡はというと、ただ静かに三人を見送る体勢に入っている。
 そして、三人が待たせてある車の所まで行こうとしたところで、村岡が、ふと思い出したように、祐一を呼び止めた。

「あぁ、相沢君。一つ思い出したのだが」
「? 何でしょうか?」
「いや、月宮君の見舞いに来た人についてなんだがね」
「はい」

 そこで一旦言葉を切る村岡。 考えるような様子だったが、祐一は、ただ黙って次の言葉を待った。
 そして、少しの沈黙の後、村岡が、これは推測なのだが、と断ってから話し始める。

「もしかしたら、私達の知らない誰かが、見舞いに来ていたのかもしれない」
「え……?」
「いや、彼女が容態を悪化させ始めた頃のことなんだが、彼女の枕元に、小さな人形が置かれていたことがあってな。誰が置いたのかについて、色々と噂が飛び交ったりしたのだ」
「人形……? それって、もしかして天使の人形ですか?」
「天使……あぁ、そうだな。羽が片方取れていたりしたが、確かに天使の人形のようだった。なぜ知っているのかね?」
「……七年前に、俺がプレゼントしたんです、天使の人形を」
「ほう」

 少し興味深そうな表情を見せる村岡。 祐一は、静かに言葉を続ける。

「その人形、その後で地面に埋めておいたんです。タイムカプセルということで」

 祐一の脳裏に、あゆと人形を埋めた時のことが、鮮明に浮かび上がってくる。 道に迷ってたどり着いた場所で、偶然見かけた瓶に人形を詰め、タイムカプセルにしたこと。 それは懐かしく、楽しく、それ故に悲しい思い出。

「ふむ……だとすると、誰かがそれを掘り返して、月宮君の枕元に置いたということかね?」
「わかりません」

 力なく首を横に振る祐一。 それを見て、これ以上の追求は止めておこうと思ったのか、村岡が次の言葉を発する。

「まぁ、そこに何かの意味があるのかもしれんし、ないのかもしれん。いずれにせよ、気に病むことではないだろう」
「……そうですね」

 しばらく黙っていた祐一だったが、やがてゆっくりと頷いてみせる。

「それでは、これで失礼します」
「あぁ、気をつけて帰りなさい」

 今度こそ、村岡に見送られて、三人は車に乗りこんだ。 行きの時と同じように、車は滑るように発進する。 そして、あっという間に、村岡の姿は見えなくなってしまった。







 その帰り道の車の中で、祐一が静かに口を開いた。

「あゆの墓参り、行かないとな……」
「祐一、それは事件が終わってからにした方がいい」
「あぁ、わかってるよ」

 確かに、祐一が命を狙われているのなら、のんびりと墓参りをしている場合でもないだろう。 墓参りは、全てが解決してからにしても、決して遅くはない。

「全てが終わってから、三人で行きましょう」
「それがいい」
「あぁ……ありがとう、佐祐理さん、舞」

 佐祐理の提案に、祐一も笑顔を見せる。 そしてそれからは、談笑しながら、三人は到着までの時間を過ごした。

「それでは祐一さん、今日はこれで」
「あぁ。ありがとう佐祐理さん、送ってもらっちゃって」
「気にしないで下さい。大したことではありませんから」

 水瀬家の玄関先で、村岡の家から直接送ってもらった祐一が、佐祐理と舞に別れを告げていた。 感謝する祐一に、佐祐理は笑顔で返す。 そして、色々と話していたが、やがてそれも終わる。

「祐一」
「何だ? 舞」

 いざ帰宅、という時に、舞が祐一に声をかけた。 家に入ろうとしていた祐一が、足を止めて舞の方を見る。

「明日、学校が終わったら、私達の家に来てほしい」
「ん? いいけど、どうしてだ?」
「ちょっと、話したいことがあるから」
「今じゃだめなのか?」
「だめ。明日まで待って」

 要するに、玄関口で話すことではない、ということだろうか。 祐一はよくわかっていないようだったが、舞が真剣に話している様子を見て、とりあえず、舞に同意を示すことにしたらしい。

「わかったよ。それじゃ、舞、佐祐理さん、また明日」
「うん」
「はい、また明日お会いしましょう」

 別れの挨拶を終えると、舞と佐祐理を乗せた車は、ゆっくりと水瀬家から遠ざかっていった。 それを見送ってから、祐一は玄関を抜け、家に入る。 そして、出迎えてくれた秋子や名雪と談笑しながら、祐一は、祝日の残りを過ごした。







「川越さん、今帰りました」
「ご苦労だったな。で、どうだ?」

 その頃、警察署内では、川越が、部下の白坂の報告を受けているところだった。 それまでずっと外で調べていたらしく、白坂の顔には、薄っすらと汗が浮かんでいる。 曇り空のせいもあり、涼しかったとは言え、それでも外を歩き回っていれば、それは汗もかくというものだ。
 そんな白坂に労いの言葉をかけてから、川越がその成果について尋ねる。 川越は、彼の報告に少なからぬ期待を持っていたようだが、白坂は静かに首を横に振った。

「いや、それらしき人物は浮かんできませんね」
「それは確かか?」
「少なくとも、病院関係者は誰も、月宮あゆを見舞いに来た人間を目撃していない、ということでした」
「一度もか?」
「事故直後は、何度か親類も見舞いに来ていたらしいんですが、それも一年もしないうちに途絶えています。それ以降は、なかったようですね」
「うーむ……」

 そう唸ると、川越は手を頭にやった。 渋い表情のまま、何事か考え込んでいる。 予想とは異なる展開だ、ということらしい。 きっと、もっと簡単に容疑者が出てくる、と思っていたのだろう。

「あれだけ執拗に相沢を狙ってたってのに、犯人は、当の月宮の病室には出入りしてなかったってことか?」
「そうなりますね」

 復讐。 それを宣言していた犯人が、その復讐の理由たる月宮あゆの近くにいなかった、というのは、どう考えても不自然だ。 月宮あゆを想えばこそ、そのことを忘却していた相沢祐一を許せなかったのだろうし、だからこそ犯人は、復讐に走ったのだと思われている。 それならば、それこそ毎日のように病室を訪れていてもいいはずだ。
 それなのに、調べてみると、それらしき人物を見た人間はいないという。 川越が頭を抱えたくなるのも無理はない。 言葉にこそ出してはいないものの、白坂も落胆しているだろうことは、その言葉の端々に滲み出る徒労感から窺える。

「まさか、六年以上音沙汰なしだった親戚の誰かが犯人だ、とかいうんじゃなかろうな?」
「いえ、それはないですね。確認しましたが、月宮あゆの親類は、全員この街から遠く離れた場所に住んでいますし、山浦が射殺された時間帯のアリバイもありました」
「そうか」

 長く放ったらかしにしておきながら、突然親愛の情が目覚めたりすることもないだろうから、これは特に落胆することでもなかった。 あくまでも、念のために調べただけに過ぎない。

「しかしそうなると、犯人は月宮との接触を持たずに、勝手に相沢を恨んでいたということになってしまわないか?」
「うーん……はっきりとわかっているわけじゃないんですが、一つだけ気になる話があるんです」
「ん? 何だ?」

 少し興味をひかれたのか、川越は身を乗り出す。 そして、白坂が、手元の手帳に眼を落とし、報告する。

「今年の二月中旬頃のことですが、月宮あゆの病室に、前日までなかったはずの人形が、置かれてあったらしいんです」
「人形?」
「そうです。話から察するに、天使を模した人形のようですが、それが、枕元にぽつんと置かれていた、ということです」
「それを置いた人間は、目撃されてないのか?」
「はい。というよりも、本当に何の前触れもなく突然に現れた、という感じのようで」
「誰が置いた以前に、いつ置いたのかもわからないということか」
「そうです。あるいは深夜に病院に忍び込んだ人間がいて、その人物が置いたのかもしれませんが……」
「病院の管理体制が、そこまでザルとは考えにくいか」
「さすがに、深夜に忍び込める人間はいないと思うのですが」

 考え込む川越。 その人形の主が、今回の事件の犯人なのだろうか?

「病院では、院内の誰かが置いたんだろう、という説が有力らしいですね」

 白坂が、そんな言葉を付け加える。

「院内の誰か?」
「まぁ、普通に考えれば、それが一番自然な流れとは思いますが」
「ふむ……」

 と、なおも考え込んでいる川越に、白坂が思いついたかのように話しかける。

「川越さん、もしかしたら、病院関係者の中に犯人がいるんじゃないでしょうか?」
「なに?」
「月宮あゆの状態なんかについても、よく知っていたわけですし、相沢のことだって調べられる立場でしょう? それに、長く看護していただけに、死んだ時の悲しみは大きいと思うんですよ。動機にならないこともないと思うんですが」

 話しているうちに、白坂の口調も、段々と熱っぽいものになってくる。 だが、川越は、緩やかに首を横に振った。

「それは面白い考えと言えなくもないが、そうすると疑問がある」
「え? 何が問題なんですか?」
「まず、時期がおかしい」
「え? 月宮が死んでから一ヶ月も間があることですか?」
「いや、それは準備ということで説明がつかないこともない」
「じゃあ、何がおかしいんですか?」

 白坂が、詰め寄るように、川越に答えを求める。 それを手で制止しながら、川越が話し始める。

「月宮を看護していて、彼女に情が移る、というのは理解できないこともない。それが高じて、相沢への怒りが生じたとしても、それもまぁ、納得できないことはない」
「それはわかります」
「だが、それならどうして、今まで何も行動を起こさなかったんだ?」
「え?」
「どうして月宮が死ぬまで、何の行動も起こしていないんだ? 本当に月宮を想っての行動だとすれば、彼女が死ぬ前にするべきじゃないのか?」
「えーと……そうだ、相沢がこちらに引っ越してくる前だから、連絡のとりようがなかったんじゃないですか?」

 言葉に詰まった白坂だったが、相沢が最近引っ越してきたばかりであるという情報を思い出し、それが理由だと言う。 けれど、川越は、これにもすぐに首を横に振る。

「それなら、水瀬秋子に連絡をとればいい。彼女はずっとこの街に住んでいるわけだし、相沢との関わりも深い」
「あ……そうか」

 理に叶った川越の言葉に、白坂が目に見えて落胆するのがわかる。

「そういうことだ。病院関係者なら、七年前に彼女が相沢を迎えに来ていたことを知ることができるはずだからな」
「そうですね。だとすると、病院関係者じゃないんですかね」
「まぁ、可能性はゼロではないだろうが、低いんじゃないか?」

 そして、二人揃ってため息をつく。 二人の心に、この事件は一筋縄ではいかない、という思いが渦巻いていた。








〜続く〜





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