彼の人に捧げる挽歌


第八章  再起















 太陽がさらに高く上り、陽光は目の前の全てを明るく照らし出す。 吹き抜ける風は優しく、山を走り抜けてゆく。 周囲の光景は、何一つとして変わらない。 春という季節を、見事に体現し続けている。
 けれど。

「……」

 その周囲の景色から切り離されたかのように、祐一は力なく項垂れていた。 彼を取り巻く色鮮やかな風景とは対照的なまでに、彼の姿には色が感じられない。
 もはや涙も涸らしてしまったのか、漏れ聞こえていたくぐもった声は、もう聞こえなくなっている。 それこそ、縫いとめられたかのように、彼は動かない……動けない。
 場が静寂を取り戻してはいても、何も解決したわけではないのだ。 ただ、音がなくなったというだけのことである。 そんな静寂の中で、祐一は項垂れているだけだった。
 静寂が耳に慣れようかという頃に、大地を踏みしめるような音が、祐一の耳に届いた。 音のないその空間に、それはひどく大きく響いた。 それでも、祐一は動かない。

「祐一……」

 聞きなれた声が、鼓膜を震わせる。 いつだって聞いていたい声……けれどそれ故に、今は聞きたくない声。 祐一の心の多くを占める、大切な人の声。

「舞……」

 体を動かすことなく、項垂れたままで、ほとんど反射的に、祐一が呟いた。 静かな空間を越えて、それは舞の耳に届く。 その声質に、微かに顔をしかめる舞。

「どうして、ここに……」
「秋子さんから電話があった」

 簡潔な内容。 要するに、急に飛び出した祐一を心配して、秋子が舞に連絡したのだろう。 この場は舞に任せた方がいい、と判断したのかもしれない。 ともかくそれで、舞がここにきた、ということらしい。

「そうか……」

 状況を把握して、祐一が小さく呟く。 それきり、二人とも黙り込んでしまった。 元より舞は寡黙な方だが、この沈黙は、話すことがない、という意図によるものではないだろう。 それは、おそらく……

「舞。俺……」

 永遠に続くかと思われた沈黙は、しかし祐一によって破られる。 ぽつりぽつりと呟かれる言葉。 小さな声ではあるが、聞こえないほどでもない。 舞は、やはり黙ったままだ。
 けれどそれは、祐一に先を促しているような、そんな沈黙だった。

「俺は……七年前に、人を見殺しにしたんだ。木から落ちて、傷ついて、意識を失ったあいつを、俺は……」

 一旦話し始めると、その口は止まろうとはしなかった。
 まるで罪を告白するように。 懺悔するかのように。

「しかも、そのことを……忘れて……あいつは、ずっと眠り続けてたのに、それを、忘れて、俺は……」
「祐一」
「あいつが死んだことさえ、俺は、気付かずに……!」
「祐一!」

 そこまで話して、感情が激してきたのだろう。 祐一が、いきなり拳を切り株に叩き込み始める。 少し慌てたような舞の声にも、全く反応することなく。

「俺は……俺は……っ!」
「祐一、もういい! もう止めて!」

 何度も何度も、祐一は、自分の拳を叩きつける。 そこには、一切の容赦も躊躇いもない。 当然、拳だって無事で済むわけがない。 たちまち皮が破れ、血が滲み、目に見えて傷が広がってゆく。
 憎しみのこめられた拳。 それが祐一の体を傷つけていた。 それでも、祐一は止まらない。

「俺が、あゆを殺したんだっ!」
「祐一っ!」

 後ろから羽交い絞めにするようにして、舞が祐一の動きを止める。 肩を拘束され、それでももがいていた祐一だったが、やがて力なく項垂れる。 荒い呼吸。 滴り落ちる赤い血。
 舞が腕を離すと、祐一は再び大地に腰を落とした。

「……」
「祐一……」

 場を動くことなく、舞が、膝立ちのまま、祐一の背中に話しかける。 項垂れている祐一は、ただ黙っているだけ。

「私は、あゆっていう人のことを、何も知らない。七年前に何があったかなんて、全然わからない。祐一とあゆっていう人の関係も、全く知らない」

 舞は、祐一の様子にも姿勢を変えることなく、ただその背中に言葉をかける。 そこには、責めている様子も、慰めている様子もない。 まっすぐに祐一の背中を見詰めながら、淡々と、言葉を紡いでいく。

「でも、一つだけわかることがある。私だから、わかることがある」

 そこで、一旦言葉を切る。 一つ呼吸。 祐一は、まだ動かない。

「今の祐一は、あの時の私と同じ。勝手に罪悪感を感じて、勝手に罰を求めてるだけ。自分への怒りを、周囲に撒き散らしているだけ」
「っ……!」

 静かに、淡々と紡がれた言葉。 けれどそれは、何よりも重く祐一の心に響いた。 目に見えて硬直する祐一の体。
 あの時……この言葉が意味する時、意味する事実は、祐一にとっては、多くを語らずとも明らかだ。 舞の誕生日の日、舞の力のせいで、佐祐理が傷ついた時のこと。 その時のことを、舞は言っているに違いなかった。
 佐祐理が病院に運ばれて、舞は、校舎の中でひたすらに暴れていた。 声もなく泣きながら、ただ剣を振り回し、暴れていた。 罰を……痛みを、求めた。 消えない傷さえも、求めた。
 けれど、それは間違っていた。 そう諭し、舞に進むべき道を、やるべきことを教えてくれたのは、他ならぬ祐一だ。
 だからこそ、今、舞の言葉には力がある。 それは、乗り越えた者だけが持てる力だ。

「あゆっていう人が、祐一に罰を求めてると思ってるの? 祐一に苦しんでほしいと思ってるって、本気でそう思ってるの?」
「でも……」
「でもじゃない。もし本気でそう思ってるのなら、あゆっていう人がかわいそう」

 弱気な祐一の言葉を、舞はぴしゃりと封じる。 舞の言葉は、やはり強かった。 静かな語り口で、けれど重みのある言葉。

「木から落ちたのなら、祐一の責任じゃない。それでも、あゆっていう人は、祐一を恨むの? 祐一に罰を求めるの? そういう人だって、祐一は思ってるの?」
「それは……」
「友達なのに、そんな風に思うのは、その人への侮辱だと思う」

 舞の言葉に、力をなくしていく祐一。 あゆが心優しい女の子であることは、誰よりも祐一自身が知っていることだから。 舞の言葉を否定することなんて、できなかったから。 ここで否定の言葉を口にすることは、舞の言う通り、あゆを侮辱することになるから。
 そして、舞は変わらない調子で続ける。

「それに、忘れていたことは、もうどうしようもない」
「どうしようもないって! そんな……」
「じゃあ、祐一はどうにかできるの? 忘れてたって事実を、なかったことにできるの?」

 思わず振り返った祐一の表情が、舞のその言葉によって、大きく歪む。
 確かに、もうどうしようもないのだ。 秋子に言われるまで、全て忘れていた祐一。 けれど、それに気付いて、そのことを悔やんでみたって、何も変わらない。 忘れていたという事実に対し、聊かの罪滅ぼしにもならない。
 言葉を失ったままの祐一の目を、じっと見据える舞。

「過ちて改めざる、これを過ちと言う……孔子の言葉。忘れていたことが過ちだと思うのなら、それを正さなければいけない」
「……」
「くよくよと、いつまでも立ち止まったまま、自分を責めるのは、楽かもしれない。だけど、それこそが間違い」
「……」
「痛みを抱えて、苦しみを抱えて、それでもその痛みを、苦しみを、ちゃんと受け止めて歩き出すこと。辛いけど、でも、これが正しいことだと思う」

 ただ黙って、舞の目を見据えながら、舞の言葉に聞き入っている祐一。 舞はやはり、表情を変えないまま。

「悔やんでたって、それだけじゃ何も変わらない。それだけじゃ、過ちは正せない。辛くても、苦しくても、歩き出さなきゃいけない。逃げ出しちゃいけない。これは、祐一が教えてくれたこと」

 舞の力が、佐祐理を傷つけた。 だからこそ、舞は傷を求めてしまった。
 けれど、それは間違っている、と舞に教えたのは、他ならぬ祐一だ。 佐祐理を傷つけたという理由で、舞が自分を責めることを、佐祐理は望まない。 自分で勝手に決め付けて、勝手に傷ついても、それは単に逃げてるだけ。
 謝りに行けばいい……その言葉に力を得て、舞は全ての決着をつけた次の日に、佐祐理の元へ謝りに行った。 当然、佐祐理が舞を恨むわけはなく、二人の仲は、より強固なものになっている。

「でも、舞の時とは違う……舞は、佐祐理さんに謝ることができた。だけど、あゆはもう、いないんだ。俺にできることなんて、もう、何も……」

 弱弱しい祐一の言葉。 謝りたくても、あゆはもういない。 伝えたい言葉も、届かない。 どれだけ想っていても、どれだけ願っていても、祐一の言葉は、あゆには届かない。
 それが故の、嘆き。 それが故の、自責。
 と、そこで、舞が、再び俯きそうになる祐一の頬を、ゆっくりと両手で包み込むようにする。 そして、静かに口を開いた。

「逃げないで。ちゃんと事実に向き合って。あゆっていう人のことも、自分のことも、全部受け止めて。それもしないで、何もできないなんて、言っちゃだめ」

 ゆっくりと言葉を紡ぎ出してゆく舞。 舞の目は、至近距離からまっすぐに、祐一の瞳を覗き込んでいる。 前を見ようとしない祐一に、前を向かせるために。
 奇しくもそれは、自暴自棄になりかけていた舞に、祐一がしたことと同じだった。

「覚えていてあげて。今度こそちゃんと。いいことも、悪いことも、全部」
「え……?」
「そして、いつか私や佐祐理にも、聞かせてほしい。あゆっていう人のことも、二人の思い出も」

 驚く祐一の目に、舞の微笑みが映る。 はっきりと、舞が微笑んでいた。 普段は無表情な舞が、はっきりそれとわかる笑みを浮かべることなんて、普段はほとんどないけれど。
 けれど、今、舞は優しく微笑んでいる。 全てを受け入れるように、全てを許すように。

「きっと、あゆっていう人も、それを望んでると思うから」

 祐一の目に、光が戻る。 差し込む陽光に、目尻が光る。

「あゆのことを、知らないって言ってたのに、はっきり断言するんだな……」
「祐一が、大事に思ってる人だから。だからきっと、あゆっていう人も、祐一のことを大事に思ってたはず。私は、そう信じてる」

 舞の言葉には、疑っている気配など、微塵も感じられない。 ただ、祐一が自分を責めて傷つけたくなるくらいに、あゆのことを想っていることがわかったから。 それだけでも、舞には証拠として十分なのだろう。

「……話すよ、今度。あゆのことも、二人の思い出も、全部さ……」
「うん」

 搾り出したような祐一の声には、しかし、確かな意志があった。 歩き始めようという、そういう決意が、そこにはあった。 だからもう一度、舞は祐一に向かって、柔らかく微笑んだ。







 それから数時間後、祐一と舞は、警察署にいた。 あの後、何とか立ち直った祐一は、警察に事情を話さなければならないことを思い出し、帰る道すがら、警察署に向かったのだ。 祐一は、警察署がどこにあるのかを知らなかったので、舞に道案内を頼んでいた。
 受付で、名前を名乗り、昨日の事件の件で、と告げると、ソファで待つように言われ、舞と並んで腰を下ろした。 舞は元より必要以上のことを喋らないため、無言でいたし、祐一にしても、緊張がないわけではなかったので、黙って座っていた。
 ほどなくして、奥の方から、見覚えのある二人の男が歩いてくるのが見えた。 祐一は、反射的にソファから立ち上がる。 川越刑事と白坂刑事……その名前を祐一が思い出した時には、二人は既に祐一と舞の目の前に立っていた。

「来てくれたか。それで、もう大丈夫なのかね?」
「はい、一応……」
「そうか。ところで……」

 そこで、川越が舞の方にちらりと視線をやる。 無関係の人間がそこにいる、と判断し、それを咎めているような目だった。 もっとも、舞がそのことに動じることはないのだが。

「あ、こいつは、俺の……えっと、大事な人、なんです」
「ふむ……」
「その、ここで一緒に話をさせてもらってもいいですか?」

 祐一にしてみれば、舞がそばにいてくれるだけでも心強い。 何だかんだ言っても、昨日も今日も辛い出来事が多かったのだ。 それだけに、舞には隣にいてほしかった。

「しかしね……」
「……余計な口出しはしないから、祐一のそばにいさせてほしい」

 不満げに発せられた川越の言葉を遮るように、舞が静かに口を開く。 その目はまっすぐ川越を見ていた。 真摯な眼差し。 しばらく睨み合っていた形だが、やがて根負けしたように、川越は頭をかく。

「まぁ、いいだろう」
「ありがとう」
「ありがとうございます」

 目の前で人が死んだ以上、現在の祐一は、情緒不安定であってもおかしくはない。 しかし、心から信頼できる人間がそばにいれば、精神もある程度は安定するだろう。 そしてその方が、実のある話ができる。
 川越はそう判断し、舞の同席を許可したわけだ。
 そして、川越と白坂が、祐一と舞を、話のできるスペースに連れて行った。 警察署内にある、喫茶スペースのようなところだ。 堅苦しい場所で話すよりも、そういう場所の方が、緊張がほぐれるだろう、と考えたのかもしれない。

「さて、早速だが、本題に入りたい」
「はい」
「昨日の午後四時十五分頃。君の通う高校の校門付近で、用務員の山浦重之さんが、背中から銃で撃たれて死亡した」

 手に持っていたファイルを開き、それに目を落としながら、川越が話を始める。 白坂は、ここではただ黙って聞き役に徹するつもりらしい。 それは、まるで昨日のおさらいをしているかのようだった。 しかし、その言葉の一つ一つが、祐一の心に、昨日の記憶を呼び覚ます。
 祐一は、不安になりそうな心を抑えて、真剣に川越の話を聞く。

「撃たれた時、君は山浦さんのそばにいたそうだが、それはどうしてかね?」
「あ、それは……」

 言われて、昨日のことを思い出す祐一。

「学校が終わって、まっすぐ家に帰ろうとして、玄関を出て、そのまま校門に向かって歩いていたんですけど……」

 思い出しながらだから、話す言葉も、つっかえつっかえになる。 それでも、二人の刑事は先を急かそうとはせずに、祐一の言葉を待っている。

「その時、校門のあたりで、用務員の人……山浦さんが、何か作業してたんです。それで、通り過ぎようとしたら、その山浦さんに、いきなり呼び止められて」
「ん? 呼び止められたのかい? 山浦さんに。君が山浦さんに声をかけたわけじゃないんだね?」
「はい」
「君を呼び止めたんだね? 生徒なら誰でもよかったのではなく、君を」
「そうです。名前も確認されたので、間違いないです」

 祐一が帰ろうとした時は、部活をやっていない生徒達の下校時刻と重なっていたため、現場付近を歩いている人は少なくなかった。 実際、二人の刑事が事件後に行った聞き込みでも、山浦が祐一を呼び止めていたことを目撃していた人間は、複数存在していることがわかっている。
 だからこそ、このあたりのことは、念のために行った確認に過ぎない。
 だが、山浦と祐一の話の内容まで聞いている人は少なかった。 それについて川越が尋ねると、祐一は少し考え込みながら、ゆっくりと話し始める。

「ちょっといいかい? って、まずは呼び止められました」
「それで?」
「で、相沢祐一君だよね? って尋ねられて、そうですって答えたら、少しだけ聞きたいことがあるんだって言われました」
「ふむ、それから?」
「いえ、これだけです。ここで……」

 ここまで話した時に、撃たれたということだろう。 それを察し、わかった、とだけ川越は言い、少し考え込む。
 祐一の口ぶりから、嘘を言っている様子は窺えなかった。 何より、聞き込みで得た情報との矛盾も存在しないのだから、疑う余地もないわけだが。
 すると、祐一の言葉通りのことが起こったと考えていいだろう。 つまり、校門付近にいた山浦が、歩いている祐一に話しかけて、何かを聞こうとした時に、銃弾が襲いかかった、と。

「ところでその山浦さんだが、その時、何か変わった様子はなかったかね?」
「変わった様子、ですか?」
「そうだ。何かに怯えていたとか、挙動不審なところがあったとか……」

 銃で撃ち殺された以上、これはれっきとした殺人事件である。 となれば、問題となってくるのは、動機である。 あるいは、死の直前の行動にも、何らかのヒントが隠されているかもしれない。 そう考えての川越の問いかけ。
 その質問に、祐一が少し考えてから、口を開く。

「……いえ、やけにゆっくりと喋ってるな、とは思いましたけど、それ以外には特に……」
「ゆっくり?」
「はい。何か、わざとゆっくりと喋ってるような気がしたんです。名前の確認とかも、聞きたいこととかも、なかなか口にしなかったですし」

 その言葉に、とりあえず頷いてみせる川越。 とは言え、その言葉を鵜呑みにはしない。 急いで家に帰ろうとしているところを呼び止められれば、苛立ちなどのために、ずいぶん時間が経ったように感じることもあるだろうからだ。
 そして、さらに話を続ける。

「それで、一応聞くわけだが、君が狙われる理由とかは、何か想像がつくかい?」

 昨日撃たれたのは山浦だ。 しかし、祐一と山浦は、銃撃の瞬間、かなりの至近距離にいた。 祐一には話していなかったが、撃たれたのは、学校の外にあるビルの屋上からだ、と推察されている。 となれば、あるいは間違って山浦が撃たれた可能性も、否定はできない。
 当の祐一は、その質問をされた瞬間に、身を硬くした。 それを見過ごすほど、二人の刑事は無能ではない。 それでも表に出すことはなく、ただ祐一の言葉を待っている。
 少しばかりの静寂の後、意を決したように、祐一が口を開いた。

「実は、こういうものが……」

 そう言ってから、懐に入れていた脅迫状を差し出す。 家を飛び出した時に、思わず持ってきてしまっていたのだが、それが結果として良かったらしい。

「ふむ、拝見するよ」

 川越は、祐一から手紙を受け取ると、一つ断ってから中身を取り出す。 それに目を通すと、目に見えて表情が動いた。 何度か読み返してから、黙って隣の白坂に手渡す。 白坂もまた、そこに書かれている文章を見て、表情を動かした。

「脅迫状……だね」
「はい、実は……」

 そこで祐一は、二十三日に脅迫状が始めて郵送されてきたこと、二十四日の夜にナイフで襲われたこと、二十五日に警察に相談に行ったことなどを、順を追って話し始めた。 それを頷きながら聞いている川越と白坂。 舞は当然、口を挟まない。 ただ、何事かを考え込んでいるようにも見えたが。

「すると、もう一つの脅迫状も、交番にあるわけだね?」
「はい」
「なるほど」

 川越が目配せをすると、白坂は黙って立ち上がり、どこかへ歩いていった。 そして川越が、白坂の方に目が動いた祐一に、すぐに話しかける。

「ところで、答えにくいかもしれないが、ここに書かれている、二人の人間という部分だが……」
「……はい」

 少し沈んだ祐一の声音。 それでも、まっすぐに川越を見ている。

「一人は山浦さんのことのようだが、もう一人の想像はつくのかね?」
「……」

 黙って首を縦に振る祐一。 そして、あゆのことをゆっくりと話し始めた。
 七年前に出会って、友達になったこと。 ところが、あゆが木から落ちるという事故のせいで、七年間、意識も戻らないまま、寝たきりになってしまっていたこと。 その間、祐一があゆの記憶を、心の奥底に封じてしまっていたこと。 今年の三月に、あゆが目覚めないまま死んでしまっていたこと。 そして今回の脅迫状がきっかけで、ようやくあゆのことを思い出したこと。
 それを頷きながら聞いていた川越は、祐一が話を終えた後も、しばらくの間、黙って考え込んでいた。

「……なるほど。いや、辛かっただろうに、よく話してくれたね」
「いえ……」

 いたわるような川越の言葉に、目を伏せる祐一。

「しかしそうなると、捜査も大変かもしれんな……」

 そう川越が呟いた時に、白坂が三人のところに戻ってきた。 そのまま何も言わずに、川越の隣に座る。

「それじゃあ、今日はご苦労さんだったね。家までは送ろう」
「え……? でも、いいんですか?」
「なに、構わんよ。あと、また話を聞くこともあるだろうが、その時も頼むよ」
「あ、はい。わかりました」

 そこで立ち上がる祐一と舞。 川越が、一人の警官を呼び、祐一と舞を車で送るように指示する。 そして、祐一と舞は、一つ礼をすると、署内から去っていった。

「……川越さん」
「あぁ、これは彼を狙っての復讐と考えるのが妥当かもしれんな」

 全面的に信じるわけにもいかないが、二通の脅迫状や、祐一が既に一度襲われた上での銃撃である以上、これを無視することはできない。 祐一と山浦は、かなりの至近距離にいた。 となれば、祐一を狙って、間違えて山浦を撃ってしまった、ということも十分考えられるのだから。

「もしかしたら、最初から山浦を狙っていたのかもしれんがな」
「え?」

 ぼそりと呟かれた言葉に、白坂が川越の方に向き直る。

「彼の心を苦しめるために、あえて無関係な人間を巻き込んだ可能性もあるだろう?」
「あぁ、なるほど」
「むしろ、どっちでも良かったのかもしれんが」
「直接殺したとしても問題はないし、山浦を殺してしまったとしても、精神的に痛めつけられるということですか」
「そういうことだ」

 事件が一筋縄ではいかないことを思い、二人の表情も厳しいものになる。

「とにかく、まずは事実関係の確認だ。月宮あゆという少女の入院していた病院を調べて、関係者全員を洗い出すぞ」
「月宮あゆの関係者……その中で、相沢を恨んでいた人間がいれば、それが犯人の可能性が高いということになりますね」
「あぁ」

 資料を持って、二人も歩き始めた。 これからが勝負であることを認識し、川越も白坂も、少しばかり歩く足を速めた。 これから捜査会議を行うのだろう。 二人は、一直線に会議室まで歩き去っていった。







「それじゃ、舞。今日はありがとうな」
「気にしなくていい」

 水瀬家まで送ってもらってから、秋子に謝って、今日の話をして、そうこうしているうちに、日も暮れてきていた。 そんなわけで、それまで一緒にお茶を飲みながら話をしていた舞も、家に帰ることにし、それを見送るために、祐一と秋子が、玄関まで歩いてきているわけだ。
 少し申し訳なさそうな祐一の言葉にも、そっけなく返す舞。 けれど、気を悪くしているわけではなく、それが舞の普段の振る舞いなので、祐一も秋子も、気にすることなく話を続ける。

「本当に送ってってやらなくていいのか?」
「いい。そもそも、祐一は狙われているかもしれないんだから、夜に出歩くなんて論外」
「そうだけどさ……」
「それに、祐一よりも私の方が強いから。だから、大丈夫」

 送ろうとする祐一の言葉を、舞は拒否する。 もちろんそれは、祐一の身を案ずるが故。 だからこそ、最後に軽口を入れたりしたのだろう。 まぁ、舞が祐一より強いのは、厳然たる事実でもあるわけだが。 祐一も、そのことをよく知っているからか、小さく笑って返す。

「そうだな」
「うん。だから、祐一も気をつけて」
「わかってる」

 そして、舞が靴を履いて、扉に手をかける。 そのまま出ていくのかと思っていたが、その体勢のまま、ゆっくりと祐一の方に振り返る舞。 そして、ゆっくりと口を開いた。

「祐一」
「何だ?」
「明日、迎えに来るから、予定を空けておいて」
「そりゃ構わないけどさ……どうしてだ?」

 今日は、事件の関係で、祐一は欠席したし、明日は祝日だ。 舞と佐祐理の家に行くことに、異存などあるわけもない。 だが、舞の目は、真剣そのものだった。 となると、遊びなどではなく、何か大切な用事なのかもしれない。

「……詳しいことは、明日言うから」
「?」
「とにかく、また明日」
「……わかった」

 祐一は、少しばかり混乱している様子だったが、舞はそれに構わず、別れの言葉を口にする。

「祐一、秋子さん、さようなら」
「あぁ。じゃあな、舞」
「はい、舞さんもお気をつけて」

 舞は、小さく微笑むと、今度こそドアを開けて、家へと帰っていった。 少し舞の言葉を気にしていた様子だった祐一も、いなくなってはどうしようもないためか、すぐにリビングに戻り、時間を過ごすことにした。
 秋子は夕食の準備に入り、祐一はテレビを見ている。 そうして、時間はゆっくりと流れていった。








〜続く〜





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