彼の人に捧げる挽歌


第七章  自責















 四月二十八日、水曜日。

 早朝の水瀬家にて。
 秋子の朝は早い。 こなさなければならない家事もあるし、何よりも、自分の家族である祐一や名雪のためにも、早くから朝食の準備などをしたいからだ。 だからこそ、彼女が寝坊したりすることはないし、いつでも、下りてきた祐一や名雪に、微笑みながら朝の挨拶をすることができる。 その秋子の挨拶によって、祐一や名雪の朝は始まるし、秋子にしても、祐一や名雪に朝の挨拶をすることで、朝の始まりを実感できるのだ。
 そして、今日もまた、いつも通りの時刻に起床して、いつも通りに朝の準備を始めた。 手早く着替えを終えると、そのまま部屋を出て、玄関口に新聞を取りに行く。

「……あら?」

 少し不思議そうな秋子の声。 郵便受けを開けて、そこにあった新聞を取り出すと、その奥に白い封筒があるのが見えたのだ。 それだけなら、特に気にすることでもない。 白い封筒など、別に珍しくも何ともないのだから。
 問題となるのは、二つ。 まず、取り出したその封筒には、差出人の名前がどこにも書いてなかったこと。 そしてもう一つ、宛名が相沢祐一になっていることだ。
 あまりにも、不審な手紙。 何より、どうしても先日の手紙を思い出してしまう。
 結局、祐一は何も言わなかったが、先の手紙が来てすぐに、ナイフで襲われ、さらに昨日に至っては、銃で狙われた。 もっとも、撃たれたのは別人だったわけだが、被害者は彼の間近で銃弾を浴びたのだから、場合によっては、祐一が殺されていた可能性だってある。 いや、あるいは犯人が狙っていたのは、祐一だったかもしれないのだ。
 となると、この手紙は、事件に何か関係があるのではないか、と考えるのが、普通の人間の思考というものだろう。 少なくとも、秋子はそう考えた。 あの、祐一が受け取った手紙は、襲撃に関する手紙……すなわち、脅迫状とか犯行予告とか、そういう類の手紙だったのではないか、と。
 それ故に、再度差出人不明の手紙を手にとる秋子の表情は、かなり厳しいものだった。 もちろん、これが先の犯行に関係があると決まったわけではない。 だが、それでも、その可能性は、かなり高いと考えられるのだから。

「一体、誰が……」

 どうしても、悲しさが心を過ぎってしまうのだろう。 そう呟く秋子の表情は冴えない。
 ナイフや銃といった凶器により、生命の危機を、祐一が味わっていることも。 そうした暴挙に出た犯人の心も。 そのどちらもが、秋子には、どうしようもなく悲しく思えた。







「おはようございます」
「おはようございます、祐一さん。体は大丈夫ですか?」

 そして、祐一が起きてくる。 昨日の今日ということもあり、また警察に話もしなければならないのだから、祐一は、今日は学校を休むことにしている。 それなのに、普段通りに起きてきたのは、単に習慣のため、という理由ではないだろう。

「はい、もう大丈夫です」
「そうですか……」

 力なく微笑む祐一の、その表情こそが、今の祐一の状態を、言葉より正確に秋子に教えてくれる。 だが、それも無理はないだろう。 何しろ、自分の目の前で人が殺されているのだ。 それから一日しか経っていないのに、それで平然としていられる方が、むしろおかしい。
 それに、祐一が非常に心優しい人であることを、秋子は知っている。 そんな彼だからこそ、目の前で人が殺されて、大きなショックを受けているのだろうとわかる。
 それでも祐一は、秋子に心配させまいとして、どうにか笑顔を見せている。 それがわかっているだけに、秋子としても、それ以上は何も言えなくなってしまう。
 それに、そもそも優れた対処法があるわけではないのだ。 こういった心の傷は、時間が何よりの薬である。 もちろん秋子達のサポートは、大きな効果をもたらすだろう。 けれど、完全に立ち直るには、やはり時間が必要になる。
 そして、今、もっと重要なことがあるのだ。 それは、秋子の手元にある、一通の封書。 祐一への手紙であるため、もちろん秋子は、勝手に開けて中を見たりしたわけではない。 しかし、その中にあるものは、どう考えてもろくなものではなさそうである。 故に、それを今の祐一に渡していいものかどうか、考えてしまう。

「祐一さん、朝ごはんはどうしますか?」
「あ、はい、いただきます」

 とりあえず、話は後回しにすることにしたらしい。 確かに、事件に関連した話は、今は止めておいた方がいいだろう。 名雪は、今日は学校に行かなければならないのだ。 となると、話は、彼女が学校に行ってからにした方が、色々と都合が良い。 それでなくても、心配性な彼女のことだ。 きっと、脅迫状とかそういう類の手紙が祐一に送られてきていると知れば、激しく動揺することだろう。
 昨日だって、祐一が銃で殺されかけて、また目の前で人が死んだことによるショックで気絶したと聞いて、ボロボロと涙を流して悲しんだくらいなのである。 涙ながらに祐一に縋りついていた昨日の姿を思い返すに、与えずに済む心配ならば、与えたくはなかった。



「いってきます」
「いってらっしゃい、名雪」
「頑張ってこいよ」

 出かける名雪を、秋子と祐一が見送る。 名雪は、目を覚ましてからすぐに一階に下りてくると、真っ先に祐一の体調を気にしていた。 よほど心配だったのか、起こされることなく起きてきたことには、祐一も秋子も少しばかり驚いた。
 そして、学校に行く時でも、見送る祐一のことを、心配そうに見ていた。 この分では、授業にも身が入らないかもしれない。 とは言っても、祐一にはどうしようもないし、それ以上に、彼にはしなければならないことがあるのだ。

「祐一さん」
「何ですか?」

 名雪を見送ってから、リビングに二人で戻ると、秋子が話を切り出した。 彼女の手にある手紙が、今以上に祐一を苦しめることになるかもしれない、と思ってはいたが、それでも見せないわけにはいかない。 もし脅迫状だったりしたら、そこに犯人に繋がる手がかりがあるかもしれないからだ。
 そして、秋子が祐一に手紙を見せる。 その秋子の表情から、祐一もこの手紙の意図、それを秋子が見せた意図を、見抜いたらしい。 一つため息をつくと、それをゆっくりとした動作で受け取った。

「この前の手紙……あれは、やはり?」
「……はい、脅迫状でした」

 ここまでくれば、もはや隠すことはできない。 観念したように、祐一が口を開く。

「……そうでしたか」
「これも、多分似たようなものでしょうね」

 くるりと封筒をひっくり返しても、やはり差出人の名前はない。 祐一は、意を決してその封筒を開ける。 もう、部屋に戻って、という意思はなかった。
 ガサガサ、という音とともに、封筒の中から、折りたたまれた一枚の便箋が出てくる。 こんなところまで、この前の手紙と同じだ。 黙ったままそれを開くと、ゆっくりと内容を読み始めた。 祐一の横から、秋子も中を覗き見る。


『憎き殺人者、相沢祐一よ。
昨日もまた、お前のせいで、一人の人間が死んだ。
その罪を、その痛みを、噛み締めるがいい。
気絶した程度で、許されると思うな。
忘れることで、なくせると思うな。
お前が苦しむことが、お前が殺した二人の人間への、唯一の罪滅ぼしと知れ』


「な……!」
「俺が……殺した……?」

 そのあまりの内容に、秋子も祐一も絶句してしまう。

「なんて、こと……」

 秋子は、目に見えて戦慄いている。 それは、脅迫状と呼ぶにも生温い、一方的な弾劾、理不尽なほどの恫喝。 差出人に対する怒りや悲しみよりも、まず恐怖が先に立つ。
 あまりと言えば、あんまりな内容だ。 自分で銃を使って人を殺しておきながら、それを祐一のせいにして弾劾するなど、とてもじゃないが、正気の沙汰とは思えない。
 言葉を失う秋子。 その隣で、当の祐一は、大きく目を見開いたまま、ある単語に釘付けになっている。

「二人……?」

 そう、二人。 昨日の犯行を祐一に擦り付けるのは、責任転嫁以外の何物でもない、と言い切っていい。
 しかし、文面には、間違いなく『二人』とある。 これは、そのまま受け取れば、祐一のせいで死んだ人間が他にもいる、ということになる。 昨日の件は置いておくとしても、そのもう一人とは、一体誰なのか。

「そんな……俺が、誰かを、殺し……た?」

 震える祐一の声。 震える祐一の体。
 信じられない。 信じたくない。
 けれど、信じてしまえる何かが、目の前の文面にはあった。 否、この言葉を信じればこそ、ここまでの犯人の行動も、納得ができるというものなのだ。
 その、祐一のせいで死んだ誰か……その人のための、復讐行為。 それが、今回の一連の行動の原因だとすれば。 そうすれば、全てに、辻褄が合う……合ってしまう。

「祐一さん!」

 肩を揺らされて、ようやく祐一が思考の海から脱する。 それでも、その表情はどこまでも暗い。 冷や汗は、消えてくれない。 震えは、止まない。 心のざわめきは、なくならない。
 そして、ゆっくりと秋子の方へ向き直る。

「俺の、せいで……秋子さん、俺のせいで、誰かが……」
「落ち着いてください、祐一さん!」

 半ば茫然自失となっている祐一に、秋子が必死で呼びかける。 まともに文面を受け止めてしまえば、それは平然としていられないだろう。 ショックを受けても当然である。
 自分のせいで誰かが死んで、そのせいで自分が狙われて。 そして昨日、自分を狙っていた犯人によって、無関係の人間が殺されたとすれば。
 そこまで思考が展開し、その得られた答えに、祐一の表情が青ざめる。

「でも、俺……」
「しっかりしてください! いいですか? 何があったとしても、昨日のことで悪いのは、犯人だけです!」
「だけど、他にもいるって……他にも、俺のせいで、死んだ人が……」
「違います! あれは、祐一さんには何の責任も……」
「……知ってるんですか?」

 祐一の言葉への、あまりに滑らかな秋子の返答。 そこに違和感を感じた祐一。 少し驚いた目で――皮肉なことに、それが祐一の正気を取り戻したわけだ――秋子を見る。
 当の秋子は、祐一の表情を見てそれに気付いたのか、口を滑らせた、と言わんばかりの表情をしている。 口を噤み、手を口元にやり、少し大きく目を開け、祐一を見ていた。
 秋子は、何も言わずに黙っている。 だがそれが、何よりもはっきりと、先の祐一の質問に答えている。 言葉よりも雄弁に、その態度が物語っている。
 秋子が、この手紙の主の言いたいことを察知している、と。

「秋子さん! 教えてください! 俺は……俺は、何をしたんですか? 誰が、俺のせいで死んだんですか?」
「ですから、あれは祐一さんのせいでは……」
「でもっ!」

 言い淀む秋子に、しかし祐一は強い口調で詰め寄る。 その強い調子に、秋子も一瞬怯んだような表情になる。

「それでも! 死んだ人がいるんでしょう? 俺が絡んで……どんな形であれ、俺が関わって!」
「……」

 辛そうな表情で、黙り込んでしまう秋子。 それ以上に悲痛な表情で、秋子に詰め寄る祐一。

「お願いします、秋子さん……教えてください」
「……」

 それでも言い淀んでいた秋子だったが、まっすぐに見つめる祐一の瞳に、やがて根負けしたように軽く俯く。 その表情には、強い悲しみの色が滲み出ていた。
 けれど、それも束の間。 すぐに顔を上げると、静かに祐一に向かって話し始める。 やはり、辛そうな表情のままで。

「……月宮あゆさん。覚えてますか?」
「月宮……あゆ……?」

 いきなり出てきた名前に、祐一が困惑の表情を見せる。 それは、知らないという困惑ではなく、なぜその名前がここで出てくるのか、という困惑だった。 こちらに引っ越してきてすぐに、七年越しで再会した、祐一の幼馴染み。 それが、月宮あゆだ。 秋子もまた、今年の一月に、彼女に会っている。 それなのに、なぜそんなことを聞くのか? と、祐一は疑問に感じているのだろう。
 それでも、そんな疑問は感じたものの、祐一は、とりあえずその問いに答えることにする。

「もちろん、覚えてますよ。最近は会ってませんけど。何か、別れの言葉みたいなのを言って、それっきり……」
「……そうですか」

 秋子の表情が、さらに深い悲痛の色を帯びる。 それが何を意味しているのか、祐一にはわからないらしい。 ただ、困惑の色を深めるのみだった。

「……月宮あゆさんは、亡くなられました」
「え……?」

 淡々とした秋子の言葉に、目を見開く祐一。 それは、信じられない、という表情。 秋子は、そんな祐一の様子を痛ましそうに見ながら、けれど話し続ける。

「彼女は、七年前から眠り続けていて、今年の三月に、とうとう……」
「そ、そんな! ちょっと待ってくださいよ! 俺は、確かに今年の一月に……秋子さんも会ったでしょう?」

 祐一は、こちらに引っ越してきた当初のことを思い出す。 食い逃げをしていたあゆ。 それからも商店街で度々出会い、時にはたい焼きを一緒に食べたこともあった。
 自分でもよくわからない探し物をしている。 そんなことを言っていた。 そしてしばらく後に、少し悲しそうに、探し物が見つかったと言って、別れの言葉を祐一に送ってから、姿を消した。
 そのあゆが、七年前から眠っていたと言う。 だとすれば、祐一が出会ったあゆは、一体なんだというのか?  あゆの言葉、あゆの記憶、それらが全て、偽りだとでもいうのだろうか?

「……祐一さん。あゆさんは、もういないんです」
「……」

 秋子にも、祐一がどうして病院で眠っているはずのあゆと出会っていたのかなど、わかるはずもない。 だが、一つだけ、絶対にわかっていることがある。
 それは、あゆが、もうこの世にいない、ということ。

「……七年前のある日、あゆさんは、木から落下して、重傷を負いました」
「え……」

 秋子が、静かに話を再開する。

「それからずっと、目覚めることはなかったんです」
「……」
「七年前の事故の瞬間。その事故の現場で、あゆさんと一緒にいた人間が……」
「俺……なんですか?」

 尋ねる祐一の声が震えている。 それがわかっていても、秋子は静かに頷いた。

「っ!」

 途端に、祐一の脳裏に甦ってくる、どこかの風景。
 それは、山の中。
 それは、大樹の下。
 それは、二人だけの……
 遡る記憶がそこまで到達すると、祐一は、突然身を翻して、走り出した。

「あっ! 祐一さん!」

 かけられる秋子の声にも、一切反応せずに、祐一は、ただ駆け出した。 手に持っていた便箋を握り締めたまま、脇目も振らずに。 自分の内なる衝動に忠実に、玄関を飛び出し、足を動かす。 後ろから聞こえる秋子の叫ぶような呼びかけは、もう祐一には届いていなかった。
 どこかわかっているわけではない。 だが、それでも、祐一の体が覚えているのか、その足取りに、迷いはなかった。







「……」

 必死で駆け出してから、かなりの時間が経って、息も切れて、それでもなお、祐一は走り続けていた。 目的地に向かって、ただひたすらに。 速度は大分落ちていたが、決して立ち止まることはない。
 今は、既に街を抜け、山の中に入ってしまっている。
 木々の間を通り抜けるようにして、ただただ、頂上付近を目指す。 枝が頬を弾いた時、鋭い痛みが走ったりしたが、それでも彼は止まらなかった。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 そして、ようやくたどり着いた目的地。
 いや、目的地だった場所、と言うべきか。
 なぜなら、そこはもう、祐一の記憶の中の姿とは、明らかに様相を異にしていたからだ。 あるべきものがそこにはなく、広々とした空間が広がっているだけ。 森の中の、ぽっかりと開いた場所の真ん中に、切り株が一つ、ぽつんとあるだけ。

「あぁ……あぁ……っ!」

 震える手を伸ばしながら、言葉にならない呟きを発しながら、祐一が切り株に歩み寄っていく。 ゆっくりと、ゆっくりと。 ずっと走っていたからか、足も微かに震えていた。
 それでも、少しずつ歩み寄っていく祐一。 言葉にならぬ声を上げ、震える手を伸ばす。 彼の指が切り株に触れた時、堰を切って、封じていた記憶が、忘れていた想いが、なくしていた痛みが、祐一の心に戻ってきた。



 偶然の出会い。
 泣いていたあゆ。
 何とか泣き止んでほしくて、色々と話しかけたこと。
 たい焼きを買ったこと。
 二人でそれを食べたこと。
 最初の指切り。
 約束の場所。
 秘密の場所。
 二人の学校。
 楽しい日々。
 天使の人形。
 タイムカプセル。
 別れの日。
 赤いカチューシャ。
 見上げた先で笑うあゆ。
 突然吹いた強い風。
 真っ赤な、雪。
 最後の、指切り……



 押し寄せては引いていく波のように、次から次へと、埋もれていた記憶が、祐一の心を激しく揺らしてゆく。 あゆとの出会いから、その最後となる日までの記憶が、まるで映画でも見ているかのように、脳裏に流れてくる。

 それは、楽しかった日々の記憶。
 それ故に、悲しかった日の記憶。

「俺は……俺は……っ!」

 溢れ出す想いは、雫となって、外へ排出される。 頬を伝って、宙を踊り、大地に達する。

「俺は、あゆを……あゆを……」

 最後の日。 別れの時に、なけなしの小遣いと、ありったけの勇気を使って、手に入れたプレゼント。 それを手にするために、時間がかかって、それで、待ち合わせの時間に遅れて。

「あゆを……っ!」

 あゆは、木の上にいて。 そこから眺める景色が好きだったから、だから木に登っていて。
 そして……風が、吹いた。

「あゆを、死なせた……あゆを、殺したんだ……っ!」

 木に登ることが危険だと、そうわかっていて、それでも彼女を止められなかった。 待ち合わせの時間が決めてあったのに、それに遅れてしまった。
 もし、もっと注意していれば。 もし、あの日に遅れていなければ。
 あゆは、傷つかなくても済んだ。 七年もの長い眠りを強いられなくても済んだ。 死ななくても、済んだのだ。

「なんで……なんで、俺は……」

 それだけではなく、祐一は、そのことを完全に忘れていた。 あろうことか、目の前で苦しむあゆを前にして、祐一は、忘却という手段をとってしまった。 弱い心を守るために……あゆのことを、なかったことにしてしまった。
 そのことが、今、祐一の心に強く圧し掛かる。 七年という長い時間さえも、その重りに変えて。

「あゆのことを忘れて、あゆを見捨てて、俺だけ幸せになろうとして……」

 今の今まで、全てを忘れ、舞や佐祐理といった大切な人達と出会い、日々を謳歌し、幸せを享受し続けていた。 あゆが病院で眠っている間中、一度としてそのことを思い出すこともなく、あゆが一人で病院で永遠の眠りについた時でさえ、まるで気にも留めずに。 ただ、忘れ続けていた。
 まるで茨のように、祐一の心に突き刺さり、締め付け、傷つけていく、後悔と自責の念。 後から後から湧き出てくる、苦しみと悲しみ。 軋む心は、悲鳴を上げる。 溢れる涙は、止まらない。
 それでもそれは、あゆが味わった苦しみや悲しみに比べれば、如何ほどのものか。

「だから……こんな……」

 復讐者。 その理由。 祐一は、今ようやく、合点がいった。
 あゆを死なせても、のうのうと生きている自分に、罪を自覚させるために。
 あゆを殺した自分に、罰を与えるために。
 彼は、現れたのだろう。

「俺は……」

 それだけでなく、無関係な人まで巻き込んでしまった。 確かに、山浦を殺したのは犯人だ。 けれど、もはや祐一には、あの用務員を死に導いたのは、自分としか思えない。

「俺は、どうすれば……」

 どうすれば、償える?
 どうすれば、許される?

「俺は、どうすれば、いい? 何を、すれば……」

 犯人の言葉通り、こうやって、永遠に苦しみ続ければいいのだろうか?  後悔と自責の念に押し潰されそうになりながら、死ぬまで苛まれればいいのだろうか?

「あゆ……」

 答えなんて、見つからない。 誰だって、教えてはくれない。 ただ、祐一の声が響くのみ。 ただ、祐一が涙に濡れるのみ。

「あ、ゆ……」

 そんな言葉さえも、誰にも届かない。 ただただ、静寂がそこにあるだけ。 これが、あゆの答えなのだろうか?  これが、あゆの望みなのだろうか?  それさえも、もはや祐一には理解できない。
 膝から大地に崩れ落ち、空を振り仰ぐ祐一。 止め処なく零れ落ちる涙は、静かに大地を濡らす。
 見上げた空から降り注ぐ陽光さえ、祐一の目には、痛かった。
 何も返してはくれない静寂さえ、祐一の耳には、痛かった。
 ただ、痛かった。








〜続く〜





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