彼の人に捧げる挽歌


第三章  襲撃















 四月二十四日、土曜日。

 その日は、朝から快晴だった。 燦燦と降り注ぐ春の陽射しに目を細めながら、祐一はまずは好天に感謝した。 動物園に行くだけなら、別に雨が降っていても不可能ではないが、やはり晴れていてくれる方がありがたい。 天気予報でも、降水確率は0%とあった。 雲一つない青空を見る限り、その発表は信用してもいいだろう。
 約束の時刻は、午前十時。 集合場所は、駅前の広場と決めてあった。
 当然ではあるが、遅れないように、祐一は、余裕を持って家を出た。 微笑みながら見送ってくれる秋子に、少し照れたような笑いが浮かんでしまったのもご愛嬌か。 まさしく母の笑顔で、秋子は三人を見守ってくれていた。

 舞と佐祐理も、もちろん秋子や名雪とは面識を持っている。 というよりも、祐一が四人を引き合わせた形なのだが。 祐一が、舞と佐祐理のことを秋子に話した際に、秋子が二人に会いたがったことため、顔合わせが実現したのである。
 秋子も名雪も、一目で舞と佐祐理を気に入ったし、舞と佐祐理もまた、秋子と名雪を一目見て気に入った。 あっという間に意気投合し、出会った直後とは思えないくらいに、四人の話は弾んだ。 四人が楽しそうに話している横で、祐一は所在なさげにしていたものだ。 やはり、女性同士の話の中に、男は入りづらいものなのである。
 それ以降、秋子が祐一を冷やかすような言葉を口にすることも、決して少なくなかった。 他人の色恋沙汰は、秋子にとっても、やはり楽しみの種なのだろう。 悪気はないにしても、祐一からすれば、そうやって冷やかされるのはあまり歓迎できなかったりする。 まぁ、単純に慣れていないということなのだろうが。
 だからか、今日もまた、祐一は秋子に冷やかされているような気がしたのだ。 そこに悪意はなくとも、やはり照れ臭く感じてしまうのだから、祐一にしても苦笑いするしかない。

 さておき、心持ち早足で、駅までやってきた祐一。 現在の時刻は、午前九時半。 少しばかり、早く着きすぎてしまったかもしれない。 そんな風に思ったのも束の間。

「あ、祐一さーん、こっちですよー」

 突然、祐一にかけられる声。 少し遠いところにいるためか、発せられたその声は、かなり大きなものだった。 何事か、と振り返る人達も少なくはない。

「佐祐理さん、舞。もう来てたのか?」

 かなり注目を集めているのだが、佐祐理も、その隣に立って祐一に視線を送っている舞も、特に気にした様子も見せない。 それもあってか、祐一も、周囲の視線を特に気にすることなく、二人に駆け寄った。 そんな祐一を、笑顔で迎える二人。

「はい。待ちきれなくって」
「動物園、楽しみだったから」

 佐祐理は、これ以上幸せなことはないと言わんばかりの笑顔だったし、普段は表情を動かさない舞の口許にも、微かな笑みが浮かんでいた。 二人が、今日をどれだけ楽しみにしていたか、ということを感じ、祐一もふっと笑顔に変わる。

「おう、俺も楽しみにしてたんだぞ? 昨日は眠れないくらいでな」
「それは嘘」
「くっ……バレたか」
「バレバレ」

 大仰なポーズで語られた祐一の言葉を、一言の元に切って捨てる舞。 それに対してもまた、祐一は大仰に返す。 そんなどうでもいいようなやり取りだが、見ている佐祐理の表情には、楽しそうな色しか浮かんではいなかった。 何気ないやり取りでも幸せを感じるほどに、今の三人は満たされているのだろう。

「それじゃ、少し早いけど、とりあえず動物園に行くか」
「うん」
「それがいいですね」

 その後も少しの間、先のようなやり取りが続いたのだが、祐一が話を切り出すと、二人もまたそれに同意を示す。 舞に至っては、既に心が動物園に飛んでいってしまっているようにさえ見える。 そのくらい、今の舞の表情は輝いて見えた。 表情にこそ強くは出ていないものの、祐一にも佐祐理にも、舞が嬉しそうにしていることはわかる。
 だからこそ、祐一は早く行こう、と提案したし、佐祐理もそれにすかさず同意したのだ。

「それ、お弁当?」
「そうですよ」
「私も手伝った」

 佐祐理の足元にある少し大きめの鞄を見て尋ねる祐一に、佐祐理も舞も頷いてみせる。 鞄の中には、おそらく敷物や重箱に詰められたお弁当が入っているのだろう。
 まだ二人が高校にいた頃に、三人で食べた昼食は、ほとんどが佐祐理の作ってきてくれたお弁当だった。 重箱一杯に詰められた様々な料理に、祐一も舌を唸らせたものだ。
 時には舞とおかずの取り合いをしたり、それこそお腹一杯で動けなくなるまで食べたり。 お弁当には、三人とも楽しい思い出があるのだ。 それはきっと、美味しいから、というだけの理由ではないだろう。

「ほう、舞も手伝ったのか」
「えへん……」

 感心したような祐一の声に、舞が少し胸を張るようにする。 その姿は、どこか誇らしげですらある。 そこにすかさず合いの手を入れるのが、佐祐理だ。

「最近の舞、お料理を覚えようと頑張ってるんですよ」
「へぇ」
「祐一さんに食べてもらうんだーって」
「佐祐理……!」

 笑顔で話す佐祐理。 だが、その内容は、舞にとっては知られたくなかったことらしく、真っ赤になって佐祐理に軽くチョップを入れる。 要するに、恥ずかしいのだろう。 けれど、それももう手遅れだ。

「そうかそうか……舞は俺のために料理を頑張ってくれてるんだな」
「……知らない」
「はぇー、舞ったら恥ずかしがらなくってもいいのに」
「恥ずかしがってなんて、ない」

 明らかにからかう体勢に入ってしまった祐一と、それにのってしまう佐祐理。 二人の間で、真っ赤になりながら否定の言葉を言い続ける舞。 けれど、耳まで真っ赤にしながら言っても、説得力はない。
 それからもしばらくの間、二人は舞をからかったりしていたのだが、本気で舞が拗ねてしまう前に止めておくことにしたらしい。 祐一が鞄を手にとって、出発の体勢をとる。

「あ、祐一さん……」
「俺が持つって。それじゃ行こう」
「それじゃ、お願いしますね」
「祐一、佐祐理、早く行こう」

 そして、二人を引っ張るようにして、舞が先頭に立って、駅の中に入っていく。 電車の時間を確かめ、三人で談笑しながら、電車が来るのを待った。 それから、ほどなくして駅に滑り込んできた電車に乗りこむ。 土曜日ということもあって、それなりに車内は混んでいる。
 と言って、動きを制限されるほど混雑しているわけでもなかったので、三人とも、吊り革につかまるようにして、立っていた。 車窓から遠くに見える山の稜線に目をやったりすると、どこかへ行くのだという意識が、ふつふつとわいてくる。 遠くへ出かける、というわけではないけれど、電車に揺られながら景色を眺めていると、旅情気分を味わえるのだ。
 座席の方では、子供が、靴を脱いで、窓の外を流れてゆく景色に見とれていたりする。 その隣に座る母親が、あれは何? といった、子供の質問に答えている。 何となく、微笑ましくなる光景だった。

 乗換えなどもなく、しばらく乗っていると、目的の駅に到着した。 三人は駅に降りると、一直線に、動物園へ行く道に繋がる出口へと向かう。 ここは、動物園のすぐ近くに建っている駅なので、ちゃんと案内板にも、動物園へ通じる道について書いてある。 故に迷うこともなかった。 まぁ、動物園に行くのはこれが初めて、というわけではない三人が、道に迷うことなどあるはずもなかったのだが。

「早く、早く」
「まぁ落ち着けって。動物園は逃げたりしないからさ」

 帰りの切符を買ったりしている祐一の袖を引っ張る舞。 もう既に、心は動物達と出会ってしまっているのだろうか。 珍しく、慌てているような、焦っているような、そんな表情をしている。 苦笑しながら舞を落ち着かせようとする祐一だが、そのくらいで舞の心が落ち着くわけがない。 何せ、もう動物園は間近なのだ。

「それじゃ行くか」
「うん」
「はい」

 それから、三人で並んで、動物園までの道を歩く。 動物園への道は、それほど混んではいなかった。 祐一達の場合は、今日は休日なわけだが、会社勤めの人間だと、そう簡単にはいかない。 もしこれが日曜日だったりすれば、この道も、もっと混雑していたのだろうけれど。
 入り口に着くと、入場券を買って、中に入っていく。 数はそれほど多くないとは言え、そこにいるのは、家族連れがほとんどだ。 子供に引っ張られるようにして歩く親の姿が、祐一の目に飛び込んでくる。 元気一杯の子供は言うに及ばず、その親達も、疲れたような顔をしてはいるものの、それでも楽しくないわけではないだろうことが、容易に知れる。 もっとも、子供と一緒にいて楽しくない親なら、そもそも動物園になど来ないだろう。
 とは言え、今の祐一には、そんな光景に感慨を抱く暇もない。

「祐一、早く行こう」

 くいくいと袖を引っ張られる感触に、祐一が目を向けると、舞が、もう待ちきれない、と言わんばかりの表情でこちらを見ていた。 佐祐理は、それを見て楽しそうに笑っているだけ。 祐一もまた、笑顔で舞に頷いてみせる。 そして、三人で園内を歩き回ることにした。



「そろそろ食事にしようか」
「あ、もうお昼ですね」
「お腹空いた……」

 色々な動物を見たり、様々な動物と触れ合えるコーナーなどを回っているうちに、ずいぶんと時間が経っていて、既に十二時を過ぎてしまっていた。 祐一達の視界の中にも、広場のようなところで、敷物の上に座って、家族で揃ってお弁当を食べている人達が見えたりもしている。
 それがあってかもしれないが、祐一も空腹をかなり感じていたのだ。 それは二人にしても同様だったらしく、すぐに賛成の意を示す。 そして、三人でお弁当を広げられるだけの場所を探すことにする。

「ここにするか?」
「いいですねー」
「早く食べたい……」

 あまり混雑していないこともあって、すぐに場所は見つかった。 そこで食べることに決めると、祐一が鞄を下ろし、敷物を取り出して広げる。 その上に、佐祐理が重箱を並べていく。
 色とりどりのおかずが目に飛び込んでくると、祐一も舞も、空腹が一層刺激されてしまう。 箸を渡される手間も惜しむように、重箱の前に座り込む。 丁度、三人で重箱を囲む形。 学校でお弁当を食べていた時と、同じスタイルだ。

「それじゃ、いただきましょうか」
「いただきます」
「いただきます」

 手を合わせて、いただきますの唱和。 それが終わるや否や、かっと目を見開いて、舞と祐一が、同時に箸を動かし始める。 すばやく目当てのおかずに箸を向ける二人。

「あっ! それは俺が狙ってたエビフライだぞ!」
「早い者勝ち」
「くそっ、なら玉子焼きは俺がもらった!」
「あっ、ずるい」
「ふふん、早い者勝ちなんだろう?」
「……負けない」

 食事が始まると同時に、激しい争奪戦を繰り広げる祐一と舞。 まさに目にも止まらぬ箸の応酬。 見る見るうちにおかずが減っていく。 それでも。

「はぇー……二人とも、そんなに慌てなくても、たくさん作ってきたから、大丈夫ですよー」

 そう、おかずはまだまだあるのだ。 そう佐祐理は言うのだが、二人は先を争うように食べ進めていく。 どこか、この争奪戦を楽しんでいる風にも見える。 二人の箸は、結局最後まで、その速度をほとんど落とすことはなかった。

「ごちそうさまでしたっ」
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」

 長く続いた争奪戦が終わりを告げ、三人とも、お腹一杯という表情で箸を置く。 満足そうに腹を押さえる祐一に対し、舞と佐祐理は、姿勢を崩したりはしない。

「祐一さん、どうでした?」
「あぁ、美味しかったよ、いつも通り」
「全部ですか?」
「もちろん」

 佐祐理の問いかけに、少し首を傾げる祐一。 佐祐理の意図が読みきれないらしく、不思議そうな表情をしている。 それに対し、佐祐理は嬉しそうに表情を崩す。

「良かったねー、舞。祐一さん、美味しかったって」
「……」

 笑顔を向けてくる佐祐理に、ぷい、と顔を背ける舞。 やはり、恥ずかしいらしい。
 祐一も、ようやく何のことか思い至ったらしい。 ぽんと手を打つと、舞に目を向ける。

「そっか。舞も手伝ったんだっけ」
「はい、そうですよー。佐祐理と一緒に作ったんです」
「ってことは、あの中に舞の手作りの料理もあったわけか」
「その通りです」

 視線を合わそうとしない舞に代わって、佐祐理が祐一に説明する。 二人とも、本当に楽しそうな笑みを浮かべている。 舞はまだ、顔をそらしたままだ。 それを見て取った二人は、揃って舞の方に視線を向けてくる。

「美味しかったぞ、舞」
「ほら、舞。祐一さんがこう言ってくれてるよ」
「……そう」

 視線をこちらに向けてはいないものの、ちょっと頬を赤らめているところを見るに、舞も喜んでいるのだろう、と二人は理解したらしい。 にこにこと笑いながら、舞の料理を口々に褒めちぎる。 楽しそうに、嬉しそうに。
 結局そのやり取りは、恥ずかしくなった舞が、チョップを祐一の頭に見舞うまで続けられた。

 その後も、動物園の中を、再びのんびりと回ることで、時間を過ごした。
 いろんな動物の前で、舞はじーっとその仕草を眺めていたし、二人も一緒になって眺めていた。 記念写真もたくさん撮ったし、動物との触れ合いコーナーでは、舞はなかなかその場を離れようとしなかった。
 結局、日が暮れ始めるまで、三人が動物園を出ることはなかった。



「今日は、楽しかった」

 帰りの電車内で、舞が淡く微笑みながら呟いた。 それを聞いて、そして舞の表情を見て、祐一と佐祐理の顔にもまた、微笑みが零れる。 それは幸せそうな微笑み。

「あぁ、俺も楽しかったぞ」
「うん、楽しかったね」

 電車の窓から入り込んでくる夕焼けの赤が、視界の全てを赤く染めていく。 三人の横顔もまた、真っ赤に染まっていた。
 今日のことを話し合ったりしているうちに、電車は地元の駅に到着する。 駅に降り立って、朝に集まった広場へと場所を移す。 そこで、祐一が、手に持っていた鞄を、すっと舞に手渡した。

「それじゃ、今日はこれで」
「はい、今日は楽しかったです」
「祐一も、一緒に夕食を食べていってくれたらいいのに……」

 少し不満そうな舞の言葉。 それを聞いて、祐一が苦笑を漏らす。

「俺もそうしたいのはやまやまだけどな。でもさ、家で秋子さんが夕飯作って待ってくれてるし、今日はこれでお開きだ」
「そうだよ、舞。いつでも会えるんだから」
「……うん」

 二人の言葉に、素直に頷く舞。 彼女にしたって、わがままを押し通すつもりなどないのだ。 だから、残念そうにしながらも、また今度、という祐一の言葉に、納得の表情を見せる。

「じゃ、また電話するから」
「はい。祐一さん、また今度ですね」
「祐一、今日はありがとう」

 手を振って歩き出そうとした祐一だったが、聞こえてきた舞の言葉に、ふと足を止める。 そして、舞と佐祐理に改めて向き直ると、笑顔のまま口を開く。

「おう。また、行こうな」

 そして、二人が頷くのを見ると、今度こそ家に向かって歩き出した。 見送る二人に向かって、手を振りながら。
 祐一の姿が見えなくなると、舞と佐祐理もまた、家に向かって歩き出した。 鞄は舞が手に持って、二人仲良く並んで、ゆっくりと歩き始める。 既に、街には闇が忍び寄ってきているので、二人が家に着く頃には、真っ暗になっているかもしれない。
 そんなことを思ったからかはわからないが、二人はほどなくして、少しだけ歩く足を速めた。







 家路についた祐一は、特に急ぐでもなく、歩き慣れた道を、ゆっくりと歩いていた。 周囲も大分暗くなってきており、視界も悪くなってきていたが、別に気にすることはなかった。
 人通りも少なく、薄暗い道。 これが女の子だったりすれば、また話も変わってくるかもしれないが、祐一は男なのだ。 夜道だからといって、別に恐れる理由などない。 故に、彼は歩く速度を上げることもなかった。
 そうやってゆっくり歩いていた祐一。 だからか、自分に忍び寄る影があったことに、気付くことはできなかった。

「っ……!」

 突然、歩く祐一の真横の薄暗い路地から、何かが飛び出してくる。 それにようやく気付いた祐一は、思わず横っ飛びに避ける。 だが、飛ぶ瞬間に、鈍い痛みを左腕に感じた。

「誰だっ!」

 思わず、痛みを感じた部位に手を当てながら叫ぶ祐一。 手には、何かぬるっとした感触がある。 それが血であることに気付くのに、それほど時間はかからなかった。

「……」

 目を凝らすと、街灯の向こう側に、人影があった。 暗がりに立っているためか、顔ははっきりしない。 だが、目出し帽を被っているらしく、どのみちまともに顔を確認することなどできなかっただろう。
 何も言わないまま、手にナイフらしきものを構えて、祐一を睨むようにして立っている人影。 その体型を見る限り、性別は男のようだが、年齢は全くわからない。
 男は武器を持っているが、祐一は無手である。 当然、状況は祐一に不利だ。 けれど、不意打ちならまだしも、こうして向かい合っている状態なら、よっぽどでない限り、致命傷をくらうことなどないだろう。 舞と共に、魔物と戦った経験もあるので、防御や回避に関しては、並みの人間よりも長けている。
 それからもしばらく睨み合いが続いたが、突然、祐一の目の前の男は、さっと身を翻して走り出し、闇に消えていった。 追いかけようとした祐一だったが、左腕に感じる痛みに顔をしかめ、結局諦めることにしたらしい。 その場に立ち止まったまま、男が消えていった方向を睨み続けていた。
 痛みのせいで全力で走れそうになかったし、相手はナイフを持っているのだ。 無理に行動すれば、どんな傷を負わされるかわかったものではない。 とりあえず、当面の危機が去っただけでも良しとするべきだろう。

「くっそ……」

 痛みに顔をしかめながら、祐一は悪態をついた。 人の気配は、もう感じられない。 じっとしていてもしょうがないので、とりあえず家に向かって歩き始める。 だが、その迷いのない足取りとは裏腹に、頭の中には、様々な思考が渦巻いていた。

「あの脅迫状、か」

 歩いているうちに、ふと頭に浮かんできたのは、昨日の脅迫状。 あの差出人が、今の男なのだろうか。 だとすれば、襲われたことにも納得はいく。 もっとも、なぜ狙われているかの見当については、全くないままだったが。

「……誰なんだよ、ちくしょう……」

 手で押さえている部位から、波のように痛みが押し寄せてくる。 あるいは、かなり深く切られたのかもしれない。 そうだとすれば、急いで治療をするべきだろう。
 一応周囲を警戒しながら歩いたが、結局、あの男が再び襲い掛かってくることはなかった。







「祐一さん! どうしたんですか?」

 家に帰りついた祐一を出迎えた秋子だが、その左腕の傷を見て、さっと表情が変わる。 すぐにリビングに連れて行くと、有無を言わさず、血で汚れた服を脱がせ、すぐに応急処置に取り掛かる。
 幸いと言うか、既に血は止まっていたし、思ったよりは深い傷ではなかったらしい。
 それでも、暴漢に襲われ、ケガをしたことは事実だ。 さすがに黙っているわけにもいかず、祐一は帰り道で何者かに襲われたことを話した。 だが、脅迫状のことは、一言も話さなかった。
 脅迫状の主が犯人だという確証はなかったし、何より無駄に心配させたくなかったからだ。

「そうですか……でも、どうして祐一さんが襲われたりしたんでしょうか? 何か心当たりはあるんですか?」
「いえ、考えてるんですが、全く……」
「でしょうね」

 秋子は、目の前のこの少年が、誰よりも心優しいことを知っている。 軽いいたずらをすることくらいはあるが、人の心を傷つけるようなことは、絶対にできないことも知っているのだ。 だから、祐一が襲われた、と言われても、俄かには信じ難い。
 それでも、こうして現に、彼は傷ついて帰ってきた。 誰かにつけられた切り傷という動かぬ証拠がある以上、信じられなくとも、信じるしかないのだ。

「どうしましょう? 警察に相談しますか?」
「……そうですね、明日にでも行くことにします」
「わかりました。私も一緒に行きましょうか?」
「いえ、大丈夫ですよ」

 そう言って、心配そうにしている秋子に微笑みかける。 こうしてけがをして帰ってきて、心配させているということが、祐一には心苦しい。 せめて、これ以上の心配は、かけたくないのだ。

「それから、名雪には、このことは……」
「……そうですね。あの子が聞いたら、きっと必要以上に心配するでしょうし」

 名雪に知らせないように、と、祐一が秋子に言おうとすると、皆まで言わせずに、秋子はそれに肯定する。
 もし、名雪が祐一の負傷を聞いたら、彼女はきっと心を痛めるだろう。 人の痛みを、まるで自分のことのように悲しむことができるのは、ある意味で名雪のいいところでもあるのだが、同時に欠点でもある。 いらない痛みや悲しみを、背負うことになってしまいがちだからだ。 特に、それが近しい人物や親しい人物のこととなれば、なおさらのこと。 きっと、自分が傷つけられたかのように悲しむだろうことが、容易に想像できる。
 そういうこともあって、二人はこのことを名雪には知らせないことにした。 何も、わざわざ傷つくこともないのだ。 言わなければ、名雪は無用な心の痛みを感じずに済むのだから。

 そして、しばらくしてから帰宅した名雪を交えて、夕食をとった。 二人が黙っていたため、結局名雪は、祐一の負傷に気付くことはなく、土曜日の夜は、静かに更けていった。
 脅迫状の文面。 襲われたという事実。 襲ってきた男の見えない顔。 傷の痛み。 ベッドの中で、そうした諸々のことに考えを巡らせながら、祐一は、次の日のことを考えていた。 もちろん、警察に行くことは、とっくに決めているため、そのことで悩んでいたわけではない。 問題なのは、その後のことだ。
 舞と佐祐理。 この二人に、このことを話すかどうか、である。
 本当なら、こんな心配させるだけのことなんて知らせたくはない。 だが、二人に隠し事をするのも嫌だった。 誰よりも大事に思う二人だからこそ、秘密なんて作りたくはなかった。
 長い間考えて、心を決めた時には、既に深夜になっていた。 寝返りを打とうとして体を動かした時、左腕に走った痛みに顔をしかめる。 それでも、じっとしていれば、痛みはそれほどではない。 寝返りはできないな、などと考えながら目を瞑っていると、ようやく意識が眠りへと導かれてゆく。
 目一杯遊んだことによる疲労感もあり、眠りに落ちるのは、結局それからすぐだった。








〜続く〜





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